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序にかえて |
1 |
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第一章 日本人と「染め」 |
第三章 南太平洋から |
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「しみ」と「そめ」 |
10 |
貨幣 |
135 |
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浴びる・染みる |
13 |
幻の染色 |
141 |
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岩にしみ入蝉の声 |
17 |
タパ |
148 |
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「奥」と「染め」 |
22 |
マイシン族のタパ |
155 |
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サーフェスデザイン |
30 |
装いの理由 |
161 |
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虚実皮膜の言語 |
36 |
衣服の起源 |
166 |
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染み抜き文化 |
40 |
模様染めの始源 |
172 |
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シュポール/シュルファス |
47 |
布の発達 |
179 |
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第二章 「染め」の背景 |
第四章 「染め」の現在 |
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取っ手 |
52 |
焼きものと染めもの |
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ニセモノ |
58 |
1. 陶芸の「現在」 |
186 |
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昔話 |
64 |
2. メディウムの可能性 |
195 |
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文化の索引 |
69 |
3. モダニズムと染色 |
201 |
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出来(いでく)る |
74 |
染織国際展 |
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ジワジワ・ジワー |
78 |
1. ローザンヌ、ウッジ、京都 1992年 |
206 |
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ニュートンのインディゴ |
84 |
2. テキスタイルアートの変容 |
214 |
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色名 |
89 |
3. 主催者が提示するもの |
219 |
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熟(な)れる |
95 |
4. ローザンヌ、ウッジ 1995年 |
224 |
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風合い |
100 |
「染め」その日本的なものへの問い |
235 |
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壁 |
105 |
ヨーロッパ染織の美 |
242 |
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装身具と入墨 |
111 |
ジャパニーズ・スタジオ・クラフト |
245 |
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化粧 |
116 |
引用/参考文献、発表関連論文 |
251 |
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造園 |
122 |
後記 |
258 |
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仮面 |
128 |
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無意識のうちに覚える奇妙なよろこびが染めの仕事にある。それは染色工程の実際で体感するもので、作業を経験した者でなければわからないよろこびだろう。たとえば、仕上げの水洗で、布から未染着染料や不純物が洗い流されるのは快感である。すすぎの最後に、布から汚れが出てくるのが止まり、すすぎの水が澄んでいることに充実感がある。水のなかの布の濡れ色に、みずみずしく淑やかな発色をみる。「のし」をして、張りをとりもどした布に清新な息吹きを感じる。染めあげた布に触れ、表面に付着しているものが何もないことを確認するとうれしくなる。多様な染色効果にもかかわらず、完成作品が一枚の布に変わりがないことに満足感がある………。単なるモノづくりのたのしさではなく、皮膚感覚に根ざした触覚的なよろこびだ。よろこびが過大ではないかと自分自身を疑う。
逆にいい知れぬ不快感もある。私のロウケツ染めの場合、防染剤のロウに対する不快感がおおきい。加熱した溶ロウの煙や臭いは好きになれない。道具に付着し、床にこぼれ、衣服を汚すロウは嫌なものだ。ロウの油脂が手などの皮膚につこうものなら、それを完全に洗い落とすまでイライラする。そんなに嫌っているロウだから、溶ロウを布に施すのを、布に対して気の毒にさえ思う。布を自分の皮膚の一部のように感じるのだろうか、一面ロウを押しつけられた布は、窮屈で、気持ち悪く、息苦しそうだ。同様に地入れ(布の下地処理)や糊あし(粘着性)や防染のための糊料も、布に施すのは気色いいものではない。しかし、実際の作業中にこのようなことに頓着していたら仕事にならず、この種の不快感や抵抗感を問題にすることもない。
これらの作業工程にまぬがれ得ない不快感のゆえであろう、仕上げ段階でその不快の原因となるロウや糊などが洗い流されるのは、ことさら快感となる。このように作者をして触覚的なよろこびや不快感をいだかせるのは染色独特のものだろう。しかし、それはいったい何なのか。
染色の素材は布と染料である。染色は、布の特性を損なわずに、布に着色、施文する必要から行うもので、染色の根拠は「布の特性を損なわない方法」にある。顔料を膠着剤で表面に付着させる方法を用いれば、布のしなやかさを損なうが、布の内部にしみ込んで固着する染料なら、布の風合いを変えず、摩擦に耐える彩色布を完成させることができる。しかし、一定の文様を施すには、布全体にひろがり浸透しようとする染料をコントロールするため、特殊な防染技法を用いねばならず、染料の固着処理も必要となる。染色をかさねると、透明な染料は減算混色となり、色彩の変更や配色が自由にできない。染色には、めんどうな制約や難点があり、専門の知識や技術を要する。
染めあげた布を表装したり額装すると、一幅の屏風や額などの平面タブローとして完成する。一枚の布が「画面」と化したとき、布の意味は根底から変わる。それは、もはや肌に触れることを拒絶した布で、しなやかで、やわらかであるという布本来の物質性を離脱した、硬直した平面である。視覚イリュージョンのための画面であるだけなら、布ではなく、カンヴァスであろうと、紙や板や壁面であろうとたいした問題ではない。だとすれば、布でなければならない根拠はどうなるのだろう、完成にいたるまでの作者の充実感や満足感は何だったのかと思う。苦労して布の風合いを大切にしてきたのは何のためか、少なくともそれは直接肌に触れるという触覚に対するものだけではなかったはずだ。そうでなければ、まったく馬鹿げたナンセンスにこだわっていたことになる。
染色で平面タブローを制作すると矛盾に出くわす。布にこだわるところからはじめて、最後に布の基本的な特性を無効にして仕上げるという矛盾である。布でなければならない染色からはじめて、とくに布でなくてもよい画面に仕上げる、では、どうして布でなければならなかったのかを問わねばならない。でもその明快な解答は聞いたことがなく、この種の疑問さえほとんど耳にしない。
布の特異な触覚的感触がよい、だから染色をやるのだとの考えがあるだろう。布は肌に対してのみならず視覚的にもやさしい、「五感のすべては触覚に還元される」というように、われわれは布の触覚性を視る、いわゆる触覚視を働かせるのだと。あるいは、染料の透明な発色が美しい、繊維の内部からの発色に深い輝きがあるとも。また、染色技法の制約にもとづいた美の追求がおもしろい、やりなおしのきかない一発勝負の醍醐味があるとも。だがこれらは、好き嫌いの問題にすぎないではないか。好き勝手のドグマ的な主張では議論がはじまらない。
しかし、確かな実感がある。なぜ染色による平面タブローなのか。なぜ染色でなければならないのか。布にこだわり、布の機能を離脱する平面タブローの矛盾した両義性のゆえに露光され、浮かびあがる染色の本義がある。循環論法や好き勝手のことをもち出して語ろうとするのではない。また「そこには何かがある」ととぼけたり、「神秘的だ」などとはぐらかすのは主義ではない。染色とは何なのか、染色の本義、アイデンティティとは何か。いささか大上段ではあるが、それをどこまで言葉にできるか試みてみたい。
このような趣旨で、制作現場から「染め」への理解を訴えようと奮起したのは数年前のことである。しかし「染め」の本義をあきらかにするには、日本人とは何か、日本の文化とは何かという大問題を避けてとおることができなかった。「染め」の文化が日本文化の本性に深くかかわっているため、日本文化に普遍的な感性の解明を試みる必要があったからだ。また、西洋に模様染め文化が歴史的に欠落し、「染め」の文化は西洋美学の対象外にあった。だから西洋美学のコンテクストを再吟味する必要もあった。思いがけず五年間も執筆をつづけることになり、論考は「染め」をにらんだ文化論へと展開した。それらの原稿を集め、改めて全面的に加筆、再構成したのが本書である。
本書は四章に分け、染色現場内側からの微視的観点と、外側からの巨視的観点、染色文化の始源と、その現代などと、それぞれ焦点を対比させた論考を構成した。すなわち第一章・日本人と「染め」では、染めの実作体験をふまえた触覚的感性から日本の美学を追求する。第二章・「染め」の背景では、身近な諸文化のあり方に、日本人の感性を掘りおこし、「染め」の文化に通底する日本文化の基層構造をみつめる。第三章・南太平洋からでは、南太平洋文化のフィールド調査にもとづく比較文化論的方法によって、模様染めの始源にせまる。展覧会評による第四章・「染め」の現在では、ヨーロッパなどの染織国際展の動勢を中心に、工芸や染色の現在をさぐる。どれだけ問題の核心にせまることができたかは、もとより自信はないが、世界に冠たる日本の染色文化へのこだわりを綴った文面は、京都に生まれた染色家が「染め」の文化にささげるささやかな讃歌ではある。