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展覧会評 (『民族藝術』第21号寄稿原稿)'RIMPA' EXHIBITION What is the essence of the Rimpa art? FUKUMOTO Shigeki

「琳派 RIMPA」展 琳派的なるものはなにか    福本繁樹
民族藝術学会『民族藝術』第21号 2005 :227-230、
東京国立近代美術館『琳派 RIMPA 国際シムポジウム報告書』2006 :188-194

 

 「こんどの[琳派]はちがう」というキャッチフレーズで「琳派 RIMPA」展が東京国立近代美術館で開催された(2004年8月21日〜10月3日)。日本を代表する古美術とされていた琳派が、博物館ではなく近代美術館で開催されるのは画期的なことである(注1)。展覧会企画者は、「[琳派]は近代の産物である」と主張する。ならば、近代美術館で開催するのがスジということだ。

 たとえば、尾形光琳の名声は、明治30年代以降に徐々に作り上げられ、光琳の存在は浮世絵に続いてまず外国人から注目されたそうだ。そのうえ、宗達が脚光を浴びるようになったのは大正期になってからだ。近代になって「宗達光琳派」という考えがうまれ、当時、宗達よりも光琳のほうが国際的にも有名だったという事情もあって「琳派」とされたという。琳派の創始者とされる宗達ではなく、光琳の名によって「琳派」とするのは、宗達に対して失礼というものではあるのだが…。このように琳派の系譜は、はじめから「歴史」としてあったのではなく、近代の研究や評価によって見いだされたものだから、これを近代日本人の美意識の反映ととらえるならば、琳派は近代の産物だという。

 今回の「琳派 RIMPA」展がこれまでと違うのは、江戸琳派の再評価(注2)と、近代日本画における琳派的傾向の作品を集めたこと(注3)、そして、これまでの固定的概念としての琳派を離れて、近現代のさまざまな芸術を見渡しながら、改めて「RIMPA」の諸例をリストアップすべく、19世紀末のアール・ヌーヴォーに見られる装飾的傾向の作品から現代美術までとりあげる(注4)など、古美術から現代美術を連続させて展示したことにある。思いがけず、私の染色作品も出品することになった。私事ながら、展覧会に関わった個人的な立場から、経緯や感想などを記してみたい。

 企画担当学芸員の古田亮氏から出品依頼を受けたとき、私は「自分の作品が琳派だなどと考えたこともない」と訴えたが、「展覧会の企画内容については学芸員が責任をもつ」との潔い返事だった。また、「琳派が何らかの意味で続いたとすれば、それは『型』を守ろうとしてきたからではない、その時代ごとに新しく発見してきたからこそ、琳派は常に新鮮だったのだ」と、企画趣旨に至るコンセプトをまとめた冊子をみせてくれた。そこには、八つのキーワードから琳派的なるものの系譜を探ろうとする興味深い試みがあった(注5)。

 私の出品作は、二曲一双屏風「風神・雷神」で、表は布象嵌、裏は一枚のろう染と、表裏両面を構成したものである。この屏風は、尾形光琳の「風神雷神図」屏風の裏面に構成された酒井抱一の「夏秋草図」の例(注6)がモデルとなっている。思い返せば、これまで私は「風神・雷神」とタイトルをつけた作品を1991年と2001年の2度制作している(注7)。いずれも当時のとり組みのなかから決定版を制作しようとする意気込みによる大作の試みだった。私にとって「風神・雷神」は、あだやおろそかには使えない、恐れ多いタイトルである。

 「風神・雷神」を制作するとき、私は宗達の眼を意識した。宗達がタイムスリップして現代に蘇ったら、現代の作品をいかに評価するか、どうすれば宗達をして認めさせることができるかを考えた。過去の名作を超えることはとてもできない。しかし時代が進んでいる分、過去の作家には思いつきもしなかったものが込められるはずだ。現代人に対してはもちろんだが、先達に対してもインパクトのある作品でなければならない。そう考えると具体的な目標がみえてくる。認めてもらうべきは、過去の人物より現代人ではあろうが、現代の生身の人間よりも、私淑する先達の眼のほうが感覚的にイメージできる。独り善がりにすぎないかも知れないが、自分なりの「温故知新」の方法である。とはいえ、本音をもらせば、夢想だにしなかった今回の展示が現実のものとなると、もはや独り善がりが許されなくなったようで、逃げ場を失って身のすくむような緊張感を覚えた。

 8月28日、国際シンポジウム「琳派・RIMPA」が開催された(注8)。今回の企画には、既存の琳派観の解体を図ったうえで、近代における琳派評価史を再検討しようとする意図があった。琳派400年の歴史はもとより、明治・大正・昭和戦前期に繰り返しみられた琳派ブームや、西洋絵画から現代美術まで視野に入れ、「琳派」そして「RIMPA」とはなにかを改めて問い直そうと、広く議論をよびかけたものだった。

 「琳派の特徴、琳派的なるものとはなにか」を問おうとするシンポジウムの設問は、まことに興味深い。家系による継承ではなく私淑による断続的継承が、琳派の特徴のひとつとされるが、そもそも私淑などというものは、いつ、どこで、だれに、どのようにあるか知れたものではない。そのうえ、私淑による影響がどんな形で表れるかもまちまちで、作家個々の活動にも複雑な要素がある。それを第三者が「流派」として判断するのだから、その基準や解釈もさまざまだ。だから、「琳派なんて、本当にあったのか?」(注9)という疑問があるのも、もっともなことである。

 伝統とは「型」ではなく「精神的在り方」である。『広辞苑』にも、「伝統」とは、「ある民族や社会・団体が長い歴史を通じて培い、伝えて来た(中略)精神的在り方」と明記されている。問題は、「型」の継承が「精神的在り方」の継承にならない場合があり、「精神的在り方」の継承が「型」の継承にならない場合もあることだ。創作が時代や環境の違いを越えて展開される場合、双方を同時に継承することなどあり得ないと考えるべきではないか。それは、琳派の継承においても同様であろう。

 シンポジウムでも、琳派を特徴づけるものとして「金地、装飾性、たらしこみ」などが取り上げられた。これらの「型」について、自分自身がどのような「精神的在り方」で対応してきたのか、私は、自分と琳派との関わりについて改めて考えさせられた。そして「金地、装飾性、たらしこみ」の諸要素と、自分の作風との関係を再確認した。一作家の直観にもとづく独善的な解釈ではあろうが、次のような概略である。

 京都で着物の染色を20年あまり生業としていた私は、しばしば印金の技法(注10)を用いた。金は、他の色を圧倒する特別な力をもっている。作品に金を用いると、金の部分が際立ち、画面が引き立つ。すると周辺部分が物足りなくなって次々と金がほしくなる。画面に少しでも金を用いると、際限なく金を増やさずにはおけなくなり、中途でやめるとストレスが残る。画面構成上の必然性がないかぎり、部分的な金の使用はやめるべきだと気づく。金はふんだんに用いるか、いっさい使わないことだ。絵画に金を用いるなら、いっそ金箔を全面に貼りめぐらした画面に描けば、もっともストレスが残らないだろう。金に魅了されると、金地を存分に駆使した琳派の世界に導かれる。とくに染色の仕事に不用意に金を使うと、染色自体の仕事が危うくなる。今回出品した私の作品には金はいっさい使ってない。

 私は着物のために染色模様の創作を長年試みたが、装飾模様が苦手である。それは大学で西洋画を専攻し、西洋アカデミズムを徹底的にたたき込まれたたためだと考えている。西洋アカデミズムとは陰影法,透視図画法のことである。科学的な測定を前提とするこの画法を身につけると、琳派のような模様ができなくなる。一視点による絵画と、多視点による模様の創造は、相反する世界のものだ。それが証拠に、近代ヨーロッパに模様文化が発達しなかった。暴言に聞こえるかもしれないが、近代ヨーロッパの模様はほとんどオリエントから盗んでアレンジしたものだ。シンポジウムで光琳とアール・ヌーヴォーの流水文が同時に映し出されたが、とても比較できるものではなかった。それほど近代ヨーロッパの模様は貧弱である。困ったことに、この西洋アカデミズムが美術教育全般の基礎のように考えられて世界に広まると、日本をはじめ、模様文化の先進国における現代の模様をダメにしてしまう(注11)。だから私は、作品に装飾性を展開しても、模様を構成することを避けてきた。

 染色を仕事とする者から見れば、「たらしこみ」の造形思考は染色そのものである。染み、滲み、むらをつくる「たらしこみ」は、筆跡をそのまま残すのではなく、間接的なコントロールを要する。かつて私は、おなじ平面タブローでも、油絵は「する的」、染色は「なる的」と、違いを説明したことがあるが(注12)、たらしこみは「する的」ではなく「なる的」造形である。それを前面に押しだし多用する感性は、日本に染色文化を発展させた感性と同根であろうと思う。

 このように、私の作品には金地も装飾文様もたらしこみもなく、琳派との直接的な関連は希薄であろう。今さら、いかにも「琳派で御座い」とする作品なんて、いただけるものでもない。作家の根性はさまざまである。作品を生みだす苦闘の構造は単純なものばかりではなく、作風にはひとひねりも、ふたひねりも工夫が加えられている。その作品を「型」からみるか、「精神的在り方」にまで迫るかで、系譜のとらえ方も、まるで違ってくるだろう。

 琳派の系譜を探ろうとする場合、「型」に目を向けると類型が明白となるが、外面的な「型」だけで系譜を語るには限界がある。一方、創作の本質に迫ろうとすると、多様で屈折した現象的側面をも分析しなければならず、混乱を招く危険がある。いずれにしても「RIMPA」の解釈には二律背反に立ち向かわねばならないリスクがある。そのリスクに果敢にとり組もうとした今回の企画に敬意を表したい。「琳派的なるものはなにか」、その明快な結論はのぞむべくもないだろうが、今回の問題提起を機に議論がさらに展開されることを期待したい。

(注1) 琳派は桃山時代後期に興り、近代まで続いた造形芸術上の流派で、本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展、酒井抱一、鈴木其一が江戸の地に定着させた、などとされる。したがって、これまで博物館で開催されるのが「常識」だった。なお、「琳派」という言葉や、その存在は、創始者とされる光悦や宗達、あるいは光琳、酒井抱一などの当人が認識していたことではない。今回の展覧会には、43日間の会期中に約16万6000の入場者と2万5000冊の図録売り上げがあり、国内外のメディアにも大きな反響があった。

 

(注2) 酒井抱一、鈴木基一、池田孤邨、鈴木守一、酒井道一など江戸琳派といわれる作家の作品も展示した。光琳の華麗さ、宗達の豪快さに対して、江戸琳派の特色は,季節感をともなう瀟洒で粋なあじわいにあるといわれる。

(注3) 下村観山、菱田春草、今村紫紅、横山大観、川端龍子、平福百穂、小林古径、前田青邨、福田平八郎、山口蓬春、中村岳陵、加山又造などがとりあげられた。

(注4) 約40名の出品者には、クリムト、ルドン、モーザー、ボナール、マティス、ウォーホル、梅原龍三郎、李禹煥、諏訪直樹、中上清、岡村桂三郎、福本繁樹(筆者)らが含まれる。

(注5) 琳派的なるものは何かを探る試みとして、蘇 revive、誇 d_former、範 framework、詩lyric、連overlap、調rhythm、版 impression、飾 decorationなどのキーワードから系譜を分析しようとするもの。古田亮はこの企画趣旨のコンセプトを「美術手帳」2004年10月号に「琳派からRIMPAへ」のタイトルで発表した。

(注6) 尾形光琳の「風神雷神図」屏風の裏面に構成された酒井抱一の「夏秋草図」は、天界と地界、金地と銀地、装飾美と自然感情の対比をなして、1974年まで屏風の表裏をなしていた。

(注7) 1991年に「風神FUJIN '91-S」「雷神RAIJIN '91-S」「風神FUJIN '91-K」「雷神RAIJIN '91-K」(各244×695×20cm)4点を制作、同年、麻布美術工芸館の個展で発表。翌年「風神FUJIN '91-S」を第15回国際ローザンヌ・ビエンナーレ(スイス)に、「雷神RAIJIN '91-S」を第7回国際タピスリー・トリエンナーレ(ポーランド)に出展した。また、2001年に今回出展した二曲一双屏風「風神・雷神」(各188×180×2cm)を制作し、「現代の布―染と織の造形思考」展(2001年、東京国立近代美術館工芸館)と「現代日本工芸展 素材と造形思考」展(2002年、ペトロナス・ギャラリー, クアラルンプール、ナショナル・ギャラリー, ジャカルタ)に出展した。

(注8) 当日の参加受付は申込者から抽選とされたほどで、大勢の研究者も聴講に参加し、朝10時から午後5時過ぎまで開催された。第1セッション「総論」 村重寧「[琳派]とは何か」、玉蟲敏子「近代における[琳派]の出発と研究の歩み」、古田亮「近代日本画と琳派」。第2セッション「各論」 天野知香「フランスにおける[装飾]の位相」、ヨハネス・ヴィーニンガー「グスタフ・クリムト及び1900年前後のウィーンにおけるRIMPA-Artの意義」、北澤憲昭「琳派と現代」。第3セッション討議「琳派を考える」 司会:古田亮、パネリスト:発表者

(注9) 安村敏信「琳派なんて、本当にあったのか?」『美術フォーラム21』1999年 

(注10) 印金の歴史は古く、中国の明や宋の時代に、布上に糊料や漆、ニカワなどの接着剤で文様を置き、金箔を押しあてて乾燥したのち、拭きとって文様を表現する「銷金」と呼ばれる技法があり、日本に伝わって印金として発達した。能装束の摺箔、縫箔などに用いて珍重したが、友禅染の技術が高まるとともに染めのための補助的な加飾手段となり、江戸末期から明治にかけて断絶した。明治30年代に復活し、昭和の高度成長時代からバブル期にかけて和装業界の一部で華やかな「金彩友禅」として流行した。

(注11) 染色家の三浦景生は対談「現代の模様をつくる」のなかで「私は『現代の模様』がないような気がします」と発言している。『21世紀は工芸がおもしろい』(2003年、求龍堂刊)収録。

(注12) 筆者著『「染め」の文化』(1996年、淡交社刊)に掲載。言語学者の池上嘉彦が著書『「する」と「なる」の言語学』のエピローグにおいて、「〈する〉的、〈なる〉的というような『言語類型』─つまり、〈動作主〉を際立たせて表現しようとする言語と、それをなるべく覆い隠して表現しようとする言語という対立─が想定できるとしたら、それと平行するような『文化の類型』も認めることができるであろうか」と述べたことから、筆者は、「〈する〉的平面造形の代表格に西洋画を、〈なる〉的平面造形の代表格に日本の染めをあげたい」とした。

 


ローザンヌから北京へ
第三届国際繊維芸術双年展・研討会(上海)に参加して

月刊『染織α』 2005 5月号 :48-51 (2005 染織と生活社刊)掲載



上海図書館内展示場。左より: Deng Lin [Circulation] 180×180cm 中国、Marianne Magrus [Discovery] 200×200cm ノルウェー、福本潮子 [Summer night] 金賞 200×200cm、Dorthe Herup [Scheresade] 300×50cm デンマーク


上海図書館内展示場。左:王秦 Wang Qin [Joy] 200×200cm 金賞 中国、手前:劉珂艶Liu keyan[Blossom] 80×60×60cm 中国


左:小野山和代 [Origata] 銅賞 200×300cm、右:邱蔚麗Qiu Weili [choice] 銀賞 300×400×150cm 中国


周見 Zhou Jian・谷慧敏 Gu Huimin・李大鵬 Li Dapeng(中国、三名の共同制作) [Vital roost] 銀賞 各100×100×100cm 中国


正面:加賀城健 [Strokes] 270×220cm、その右:李鳳文 Li Fengwen [swell] 110×80cm 中国、手前:蘇鎭淑 So Jin-Sook [Metaphor, Bird's Nest in blue] 17×47×37cm スウェーデン/韓国


上海応用技術学院内展示場1階。上段:袁運甫 Yuan Yunfu [pound of lotus] 300×300cm 中国、中段:徐晶 Xu Jing [Flowr stream] 150×400cm 中国、下段奥右:酒井稚恵 [Go over the waters] 66×300cm

驚異的な経済発展を続ける中国に、新しい染織美術の動きが顕著である。中国では染織への期待が大きく、大学教育も拡大されている。かつて西欧列強や日本では「富国強兵/殖産興業」の主役は染織業界だった。今や「世界の工場」といわれる中国に集中して業界が移行しているような状況だから、なおさらだろう。ことに2000年からはじまったビエンナーレ「国際繊維芸術双年展」に現代染織造形の台頭を見ることができる。その実態を確認すべく、私は前回につづき第3回展(注1)に参加するため現地を訪ねた。
 現代染織造形の勃興にしたがって中国では「繊維芸術」の語が新しいミレニアムの語として用いられるようになった。中国で「染織」といえば、民芸的なもの、生活のなかで機能するものという概念があり、芸術のイメージがほとんどない。現実に、国内の美術館やギャラリーで創作的な染織作品をみかけることがごく最近までなかったのだから、このような事情も当然ではある。だから中国では旧来の「染織」と最先端の「繊維芸術」は、まったく別物ととらえられる。日本の場合は常に染織文化の改革をすすめてきたからだろう、「繊維芸術」を「染織」の一種と考えることもできるので、両国間で「染織」の語の認識に大きな違いがある。
 三回目となるビエンナーレは2004年の11月20〜24日に上海図書館に付属するギャラリーと、上海応用技術学院の学内ギャラリーの二会場で開催された。本来北京で開催すべきところだが、今回は上海の大学が主催を名乗り出、二つの工芸美術大学も協力を買って出たからだ(注2)。そのうえ北京では寒くなるとサーズの流行による混乱が懸念され、南の上海が無難だろうということになった。出品作品236点中に外国からの出品は一五ヶ国から89点である。前回までは北京の清華大学美術学院内で開催されたが、今回は公共の広い展示場での盛大な開催だった。今回のカタログの厚みも、以前の二倍以上になった(注3)。
 11月21日に上海応用技術学院の大講堂でシンポジウムがあった。私はその筆頭で発表した。「繊維造形」の興隆期の様相をみせる中国のため、ぜひ発言しておきたいと考えたからである。ローザンヌ・ビエンナーレの歴史が残した教訓と、国際間の染織文化の相違、それに多文化主義の重要性について発表した(注4)。
 2002年の第2回展にはじめて出品を依頼されたとき、この種の国際展が中国の北京で、「タピスリー・アート・ビエンナーレ」の英文展覧会名で、しかも「ローザンヌから北京へ」というサブタイトルをつけて開催されていることに注目した私は、シンポジウムで「〈タピスリー〉それとも〈タピスリー・アート〉―染織文化の国際間相違」と題して発表した(注5)。
 今回の発表タイトルは「〈ファイバー・アート〉それとも〈テキスタイル・アート〉―染織文化の国際間相違 Part」とした。前回まで「タピスリー・アート・ビエンナーレ」だった展覧会名が「ファイバーアート・ビエンナーレ」に改名されたことを受け、前回同様の趣旨で発表した。聞けば、今回の改名は、前回の私の発表内容が検討された結果だという。(注6)
 私が染織用語にこだわって発表するのは、言葉が民族による染織文化の構造の違いを示していたり、展覧会名などに使用された用語の変化に時代の変遷が反映されていたりするからだ。「言葉は文化の乗り物、単語は文化の索引」とはよくいったもので、たとえばローザンヌ・ビエンナーレについても、初期の「タピスリー」、第六回展に顕著になった「ファイバー・アート」、12回展あたりから統一されるように見える「テキスタイル・アート」、最後の展覧会のテーマとなった「テキスタイルと現代美術」といった言葉が、現代染織造形の歴史的な構造をみごとに反映していると考えられる。
 展覧会名に「ローザンヌから北京へ」とサブタイトルをかかげ、ローマ字の「L」を「B」に連続させた鮮烈なデザインをポスターなどに展開したビエンナーレだが、その趣意が「ローザンヌ」という老舗の看板をありがたいブランドとして受け継ごうというようなことではなさけない。破綻したローザンヌを超え、新たな波を北京から発信しようとするものでなければならない。そのためには1960年代以降の染織造形の歴史の意味をふまえた確かな見識が必要だというのが、私の発表主旨である。
 11月23日には、ビエンナーレに参加した一行数十人が蘇州工芸美術職業技術学院の招待を受けて、大学訪問と懇談会に出席し、蘇州の名園や水郷の町を訪ねた。また一一月27日に湖南工芸美術職業学院で「工芸美術の発展」をテーマにシンポジウムが開催され、ビエンナーレの顧問委員会のメンバー8名が講師として招かれた(注7)。この大学ではファッションコースに加えて、新たに繊維芸術コースを新設する予定で、当日は休日にもかかわらず、大勢の教員と学生が熱心に聴講した。質疑応答では「染織とファッションの授業をどのように関連づければいいのか」「純粋美術と繊維芸術との関係について」「繊維芸術は視覚芸術といえるのか」「繊維芸術の概念はいつどのように成立したのか」「少数民族の髪型は繊維芸術といえるのか」「大学教育の具体的な成果を語ってほしい」などと鋭い質問が続出した。私はそれぞれに日本や欧米の事情説明を加えながら明快な回答を試みた。
 この種の議論は日本においても必要とされるものだろう。ローザンヌ・ビエンナーレがはじまって40数年、すでに形式化、権威化された「ファイバー・アート」はもはや「斬新な」領域ではなく「クラシック」の趣さえただよわせるようになった。しかしその歴史的な意味の考察については日本でもまだ論議がつくされていない。たとえばローザンヌ・ビエンナーレの歴史の意味するものについての検証や議論ははじまったばかりだ(注8)。
 湖南省へ顧問委員会のメンバーと共に旅した私は、ユネスコの世界自然遺産にも登録されている張家界の武陵源自然風景名勝区にも案内いただいた。旅中、ビエンナーレ開催の中心人物である林樂成教授や、世界工芸史の権威で日本留学の経験もある張夫也教授らと存分に議論できたことは大きな収穫だった。
 次回のビエンナーレは2006年の秋に開催予定である。上海での成功を引き継ぎ、広州が開催候補地にあがっている。一方、清華大学では構内に近く美術館が竣工する。スイスの著名な建築家マリオ・ボッタ設計による北京でも有数の美術館となるそうだ。同時に本校から離れたところにある美術学院も本校内に移転される。そのため北京の新しい美術館で開催すべきかとも検討されている。
 短期間に一挙に開催された今回の大事業には、さまざまな混乱もあった。準備の遅れ、対応不足、連絡体制の不備、突然の予定変更など、たびたび直面す事務能力の粗雑さにいらだつことも多々あった。しかし不思議なことに、たいてい土壇場になってなんとか収拾がつき、おおむね成し遂げられる。むしろ中国という大国で、十分でない経験と組織力と財政にもかかわらず、大学間の協力によって乗り越え、ビエンナーレを無事成功させた情熱とエネルギーはたいしたものだと敬服する。また学生を中心とする大勢のボランティア、文化遺産訪問や懇親会、晩餐の企画接待にも感謝したい。
 次回には日本からより多くの参加が望まれる。応募要項など詳細はネットで公開される(http://chinafiberart.com.cn)。ただ、参加を希望される諸氏にくれぐれも忠告したい、中国の現状と国民性の違いを十分に理解、配慮すれば、うろたえることもなく、混乱やパニックを避けることができるだろうと。
 私は学生によく話す「君らのライバルはアジアだ。クラスメートだけを相手にしていたらとんでもないことになる」と。アジアに目を向けよう。アジアのライバルがほんとうに「眠れる獅子」なのか、よくよく心すべきである。

 

注1 展覧会正式名称は「〈従洛桑到北京〉第三届国際繊維芸術双年展(上海展年) From Lausanne to Beijing 3rd International Fiber Art Biennale (Shanghai)」。主催は中国工芸美術学会繊維芸術専業委員会、清華大学美術学院、上海応用技術学院、上海市美術科協会、上海市人民対外友好協会。

注2 中国では、今回の主催校となった上海応用技術学院のように各地の大学に「装飾芸術」の講座があるが、なかでも1999年に清華大学と中央美術工芸学院を合併して誕生した清華大学美術学院が工芸美術では唯一の国立大学として最高の権威を誇っている。他に工芸美術専門大学に、今回協賛校となった蘇州工芸美術職業技術学院、湖西工芸美術職業学院の二校と、山東工芸美術学院、福州大学工芸美術学院などがある。

注3 出品総数236点(カタログ掲載195点)。外国からの出品はカタログで確認するかぎり15ヶ国89点。内訳は、韓国30、アメリカ、日本各12、ノルウェー、フィンランド、ラトビア各5、グルジア、リトアニア各3、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、オーストリア、カナダ、バングラデシュ、オーストラリア各2。13名の審査員(国内8名、国外5名)の投票によって64点(作品総数の約27%)に授賞。内訳は、金賞2点:福本潮子、王秦 Wang Qin(中国)、銀賞4点:崔京我Choi Kyoung-Ah(韓国)、張澤洵 Zhang Faye(アメリカ)、邱蔚麗 Qiu Weili(中国)、周見 Zhou Jian・谷慧敏 Gu Huimin・李大鵬 Li Daipeng(中国、3名の共同制作)、銅賞6点:小野山和代、Blank Joachim(ドイツ)、陳玲 Chen Ling(中国)、常潔 Chang Jie(中国)、余雲斌 Yu Yunbin(中国)、趙丹丹 Zhao Dandan(中国)。また優秀賞(佳作)52点の中に日本から、わたなべひろこ、山口通恵、加賀城健、酒井稚恵、西頭真美子、豊田江里らが入賞した。なお、授賞審査において中国国内審査員は周見・谷慧敏・李大鵬三名による現代美術的なインスタレーションを高く評価し、王秦や余雲斌のような中国的なパターンをアレンジした作品に意義があったそうだが、国外審査員の評価は逆だったという。

注4 他には米、英、ラトヴィア、スウェーデンなどの作家のプレゼンテーションや、小野山和代氏による第11回国際レースビエンナーレ報告があった。

注5 このときの発表内容は拙稿「〈染織〉と〈テキスタイル・アート〉―現代染織造形と工芸世界の国際間相違をめぐって」『民族藝術』19号 2003に詳しい。

注6 この改名は私の提案ではなく、なお議論を要するものであろう。ローザンヌ・ビエンナーレの展覧会名に関しては、早くも六回展より「タピスリー」に疑問が指摘され、14回展でついに改名された。しかし北京が採用した「ファイバー・アート」ではなく「テキスタイル・アート」だった。

注7 国内から林樂成清華大学美術学院教授、張夫也清華大学美術学院教授、朱国勤上海応用技術学院教授、通訳として美術史家の白路南開大学助理、海外から作家のNancy Kozikowski夫妻(アメリカ)、福本潮子、福本繁樹の八名が講師として参加。

注8 2003年に二つの企画があった。シンポジウム「テキスタイル表現の検証と課題〜国際タピスリー・ビエンナーレ(ロ−ザンヌ)が果たした役割〜」 大阪成蹊大学芸術学部 7月12日。研究会「ロ−ザンヌ国際タピストリー・ビエンナーレとこれからの現代工芸」 東京国立近代美術館工芸館 10月11日。

 

 


展覧会評「2001 清州国際工芸ビエンナーレ」
 Cheongju International Craft Biennale 2001
『民族藝術』 Vol.18 :202-205(2002年 民族藝術学会刊)掲載



清州国際工芸ビエンナーレ会場


国際招待作家展会場。前方左より劉 貞惠「In My Life」、福本繁樹「光の都」、車 季南 「Untitled」



第2回国際工芸公募展。右の青いガラスの作品がグランプリ受賞作 Yorgen Quent Kvisland, U.S.A. 「Opening」


 韓国が元気である。近年の文化行政に目を見張るものがあり、国際規模の美術展や博覧会が相次いで開催されている。2000年には、光州広域市 ジュンウェ公園一帯で光州ビエンナーレ(The Kwangju Biennale 2000)が、3月29日から71日間開催された。「人+間(Man Space)」を主題として、46ヶ国245名が参加した、文字どおり本格的な国際現代美術展である。
 2001年には、世界陶磁器エキスポ2001 京畿道(World Ceramic Exposition 2001 Korea)が、利川(イチョン)、驪州(ヨジュ)、広州(クァンジュ)の3地域で、「土で造る未来(Shaping the Future with Earth)」をテーマに、8月10日から80日間にわたって開催された。総入場者数約600万人。この博覧会は、世界陶磁文明展、第1回大韓民国世界陶磁ビエンナーレ、IAC(International Academy of Ceramics)会員展、東北アジア陶磁交流展など、もりだくさんの催しだった。おそらく陶磁に関する国際的イベントとしては空前の規模であろう。なかでも、第1回大韓民国世界陶磁ビエンナ−レ国際公募展は、総額1億4千万ウォン(約1400万円)の賞金制度を導入し、陶磁公募展史上最大規模の69ヵ国、2,019人、4,206点の応募があり、応募作品点数を国別に見ても、韓国(869点)、アメリカ(749点)、日本(356点)、ドイツ(215点)の順となっていて、国際的なもりあがりをみせている。
 もう一つ、2001 清州国際工芸ビエンナーレ(Cheongju International Craft Biennale 2001)が、10月5日から17日間にわたって開催された。総経費約35億ウォン(約3億5000万円)、入場者数約26万3000人。2年前に続く、第2回目の開催である。この展覧会は、現代工芸の最先端を国際規模でとりあげようとしたもので、このような本格的な企画は、1978年に京都で開催された第8回世界クラフト会議以降、世界で久しく見られなかったように思われる。そのためこの誌面では、この展覧会の開催意義について考えてみたい。
 現代工芸の動向を国際規模でとりあげようとする展覧会が世界で盛んとなってきた。また、開催地や、対象ジャンルが多様となって、近年きわめて複雑な様相をみせている。陶芸、染織、ガラスなどの国際展が国内外で盛大に開催され、より専門の工芸分野や、地域の文化に関わった企画展も世界各地で開催されてきた。たとえば私が知る限りの、染織関係だけでも、テキスタイルアート小作品(ソンバトヘイ、アンジェ、コモ、マドリッドなどでビエンナーレ形式で継続中)、ろう染(1993年 ジャカルタ、1997年 ジョグジャカルタ、1997年 貴陽、1999年 ヘント)、絞染(1992年 名古屋、1996年 アーメダバード、1999年 サンチャゴ)、フェルト(1994年より ティルブルグ)、レース(1981年よりブリュッセルにてビエンナーレ形式)、麻(1996,1998年 ノルマンディー)、タピスリー(1995年よりボーベにてビエンナーレ形式、2001年 ブタペスト、2001 トィルネイ)、編細工(1999年 横浜、2001年 オルボ-)、などと数多く列挙することができる。
 以前は、欧米先進国や日本のような経済大国が中心となって、美術の国際展を開催していたものだが、近年、いわゆる第三世界といわれていた諸国での開催がふえ、とくに工芸分野への関心が深まり、対象ジャンルも多岐にわたってきた。この傾向は、芸術観のパラダイムが多様化し、芸術運動のイニシャティブが、一極集中から多極分散へと大きく移行してきたことをものがたるものであろう。つまり、芸術における欧米偏重の価値観が解体され、世界の民族が自らの「民族芸術」の座標軸を探り、そこに息づく現代の鼓動を世界に発信しようとする動きを示すものではないだろうか。
 反面、目まぐるしく変動する現代工芸の全分野をグローバルにとらえようとする、国際的な企画となると、意外と数が少ない。広範なジャンルを総合的にとらえるには、複雑化した状況を把握する確かな見識と、組織的な企画力が必要で、容易なことではないためであろう。日本の優れた現代工芸を海外で展覧しようとする動きも、各分野別には盛んだが、総合的にとらえたものは、1995年にロンドンのヴィクトリア & アルバート美術館で開催された「Japanese Studio Crafts 展」と、1999年にパリの三越エトワールで開催された「日本の工芸〔今〕百選展」の二つしか思い当たるものがないほどである。
 それだけに、全世界に呼びかけた、今回の清州国際工芸ビエンナーレ開催を、快挙として評価したいと思うのだ。また、今なぜ韓国においてなのか、その実情は如何なるものであったのかにも関心が寄せられる。
 清州国際工芸ビエンナーレの開催地、清州(チョンジュ)市は、韓国中部の中心都市。人口約58万人。市内に国立清州大学など、四つの大学がある学研都市。世界最初の金属活字がこの地で開発されたことから、金工の歴史を誇る。現在では、主要な陶器産業があり、韓国ではじめての工芸専門美術館「韓国工芸館 Korean Craft Museum」が2001年にオープンするなど、ビエンナーレ主催とともに、工芸文化に力を入れている。
 清州国際工芸ビエンナーレは、「国際招待作家展」「第2回国際工芸公募展」「伝統工芸展」「産業工芸展」で構成、他にシンポジウム、ワークショップ、体験行事、映像劇などの各種イベントもたくさんあった。その概要を記すと。
 「国際招待作家展」は、「自然の息吹 The Breath of Nature」をテーマに開催。21世紀の現代文明にとりもどすべき自然と人間との関係、自然との共生と和合のため、工芸家の視点とその作品を通じ、21世紀の文化的展望を提示しようという意図があるという。100名の作家(韓国内70名、国外30名)を選定し、「本性の表現 Expression of the Original Nature」「物性の表情 Transference of Substance」「色の空間 Space of Colors」「模倣の鏡 Mirror of Mimesis」という四つのサブテーマに作品を分け、1653平方メートルの会場に展示した。分厚いカタログが出版され、キュレイターの張 東光(Chang Dong-kwang)氏は、その主文に、宇宙の生成、自然のめぐりなどを説明する中国思想の陰陽五行説をもちだして、木、火、土、金、水(五行相成)の五元素は、すなわち工芸素材であるとして、そのことをテーマ「自然の息吹 The Breath of Nature」を設定する根拠としたと主張している。
 「第2回国際工芸公募展」は、世界中の応募作品から入選、入賞作品を展示。今回は、韓国内609点、国外35カ国538点、総1147点の応募のなかから174点が入選。金工、陶器、木工と漆、染織、その他の5部門別に、第一次スライド審査では韓国内審査員各5名で入選を、第二次審査では各部門別に韓国内1名、国外2名の審査員が授賞作品を選考。5部門各3名、総15名全員の審査員により、各部門の金賞作品5点から大賞作品(賞金2万米ドル)を選考。10名の外国人審査員は世界10カ国の、国際招待作家展出品者のなかから選ばれた。
 伝統工芸展は、「重要無形文化財保持者作品展」と「伝統と現在の創造的提携展」とで構成(協力:文化財保護財団、韓国伝統工芸産業振興協会、韓国工芸共同組合など)。また、産業工芸展は、韓国陶磁器をはじめとした韓国内の有名工芸企業、工房と、生活工芸品を製作する工芸家たちが参加するブースとともに、「伝統工芸関連文化商品開発公募展」を通じて新製品と企画商品が展示された(協力:韓国陶磁器株、韓国工芸文化振興会、韓国伝統工芸産業振興会、南ソウル大学ガラス造形研究所など)。        
 オープニングは、祝辞、挨拶、宣言、モニュメントの除幕、現代舞踏、民族舞踊、祝砲、アドバルーン、風船、凧、キャラクターグッズ、縫いぐるみのマスコット人形などなど、お祭りムードいっぱいにくりひろげられた。観客には、子供連れの家族や、中学・高校生の団体が多く、会場は群衆で混雑する。世界的不況のなか、最近の韓国に独特と思われる、この盛況とエネルギーはいったいどうしたことなのか考えさせられた。
 韓国だけが、経済的にとくに余裕があるわけでも、文化的に世界をリードしているわけでもないはずだ。日本より遅れて高度経済成長期をむかえた韓国は、1970年代になってから、ようやく芸術・文化への関心が一般に高まった。現代造形の作家や教育者や研究者など、現在のまだ若き指導者層が、それをリードしてきた第一世代といえるだろう。今まさに、経済的、文化的基盤が整い、国も人々も元気な成熟期をむかえ、国民全体が文化向上をめざして勢いづいている。それが、全国的な文化催事のもりあがりへの弾みとなっているのだろう。そして、さまざまな趣向の文化催事のなかでも、人気の中心となっているのが、日本では一般の関心が比較的低い、現代造形の展覧会である。新しい創造への関心は、未来への志向を国全体で示しているようだ。
 清州国際工芸ビエンナーレ開催にあたっては、韓国語と英語を公式言語としながら、インターネットのホームページ(http://www.cheongjubiennale.or.kr/)や、案内パンフレットに中国語と日本語も用意している。また、国際招待作家展の招待作家数は日本(6名)が一番多く、日本にむけた積極的な姿勢をみせているが、日本側の関心や対応が充分ではなかった。たとえば「第2回国際工芸公募展」の応募者はアメリカ186名、ドイツ58名、イギリス48名だが、日本はわずか30名で、受賞もふるわなかった。日本ではいまだに欧米コンプレックスや、明治の「脱亜入欧」指向の亡霊がさまよっているのだろうか。

 


南太平洋の土器と縄文土器 福本繁樹染色家、大阪芸術大学教授、民族藝術学会理事
『三内丸山縄文ファイル』  :4-5 (2001年10月1日 三内丸山縄文発信の会刊)掲載



  南太平洋には、野焼きによって土器をつくる村が各地に散在し、とくにニューギニア北東部のセピック河流域では、縄文土器にそっくりな土器がつくられています。私は考古学の専門家ではないのですが、かつてニューギニアなどの土器村にフィールド調査を繰り返して、『精霊と土と炎 南太平洋の土器』(東京美術 1994)という本を書きました。南太平洋の土器村の例は、縄文土器の復元研究などに貴重な参考になると思います。たとえば、尖底土器の成形方法、野焼きで焼成に成功する法、多孔質の素焼きの土器の漏水をふせぐ方法、土器の社会的意味など、南太平洋にはいろいろな実例があります。
 南太平洋の土器つくりでもっとも重要なのは粘土の選定と調整です。よい粘土さえあれば確実に野焼きに成功できますが、粘土が適当でなかったら、どんなに技術を工夫してもうまくいきません。南太平洋各地の伝説に、祖先がいかに苦労して土器の製作方法を開発したかという話が伝えられていますが、そのストーリーのほとんどが、粘土を探すために祖先がながいあいだ苦労する話しです。どの土器村でも、特定の粘土しか用いません。そのために近くに粘土があっても、はるばる遠くへ粘土を採掘にでかける場合もあります。野焼きで成功できる粘土を発見することはきわめて難しいと推測できます。また、土器の製作方法も土器村によってさまざまですが、その違いは粘土の違いにおおきな要因があるようです。三内丸山には粘土の採掘現場が発見されているそうですが、粘土が村の近くにあるということは、想像以上におおきなメリットだったと思います。
 また、南太平洋では土器の文様に重要な意味があります。縄文土器の文様はおおくの謎を秘め、たとえば渦巻文に関しては、蛇とか、実際の水面にできる渦だとか、世界各地にみられるような魔除けなどのシンボルなどを表すなどと推測されます。では実際はなんなのかは、縄文人に聞いてみないとわかりません。
 ところがニューギニアの土器にも渦巻文が多くみられます。ニューギニアの場合は、ニューギニアの人に直接その意味を聞くことができます。そこで聞いてみたのですが、文様についてのきわめて具体的な説明は意外なものでした。
 一例をあげると、たとえばセピック河流域のクォマ族のつくる土器の、ある文様は「マワイ」という、火の玉のような精霊を表すといいます。「マワイ」は白いイヌや白いフクロネズミ、白い蛇などに変身し、夜は火の玉となって空高く舞い上がり煙をはいてUFOのように飛ぶなどといいます。この地方の土器の文様は具象的な表現ではなく、どれも似たような渦巻文ですが、よくみれば少しずつちがいます。そのちがいによって、フクロウ、ワニ、イヌ、水草、虫など、さまざまな姿の精霊を表現しています。文様の部分的なバリエーションの違いが、きわめて豊かなモチーフの世界を物語るなんて、よその人間にはとても推測できるものではありません。
 渦巻文ばかりの社会では、渦巻文があたりまえなので、渦巻そのものの意味はニュートラルとなり、そのわずかなバリエーションこそ意味をもっています。そのような意識で、たとえば縄文土器の文様を見直せば、あるいは縄文の微妙なバリエーションにも、きわめて豊かなモチーフの意味があったのかも知れないと思えてきます。
 南太平洋の例では、とりわけ文様の世界に、人々の世界観、神話や信仰、社会組織や制度、ロマンや名誉など、さまざまなものが反映されています。極論すれば、文様の世界を理解することが、南太平洋の人々のこころをつかむ鍵になると言えます。たぶん「縄文」にも窺い知れない重要な意味があったことと思われます。縄文(文様)に縄文(文化)のこころがひそんでいるのではないかと考えています。

 




 ム 土器の成形、ニューギニア セピック河中流ディミリ村

 ミ 食事用尖底鉢、ニューギニア サウォス地方カマンガヴィ 径27〜35B

 

 


解説 福本繁樹(大阪芸術大学教授)
『木村重信著作集 第三巻「美術探検」』  :487-494 (2000年 思文閣出版刊)掲載



 1968年4月、新年度をむかえた京都市立美術大学の第一講義室に数十名の学生が授業開始を待ち受けていた。定刻になって講師がさっそうと足早に教室に入ってきたとき、教室内の全員からおおきな驚号がわきおこった。サハラ砂漠から帰ってきたばかりの講師の顔が、日焼けで異常なほど黒かったからである。また、まっくろに日焼けした精悍な顔に地味なスーツ姿があまりにもミスマッチだった。いつまでもおさまらない感声に講師はけげんな顔つきで「なんや?」と一言吐きすてると、それを意に介さぬ口調で「原始美術論」の講義を早口で朗々と展開した。講師は「美術探検」のトップランナーとして精力的に活躍中の木村重信先生だった。
 本書には1950年代の「ヨーロッパの洞窟美術」から、1990年代の「ウズベキスタンの陶芸」まで数十年におよぶ世界各地への「美術探検」が収録されている。その内容がまさに「美術探検」であることは、本書の内容に十分示されている。しかし「美術探検」の用語は今日ではあまり聞き慣れないものとなったようだ。本書に収録されている「美術探検」の初期と後期では世界の状況もおおきく異なり、探査地は、後年開発によって当時の文化が廃れてしまっている場合も少なくない。「探検」とは未知を解き明かそうとする行為にはちがいないとしても、その目的や社会的関心は、この数十年のあいだに大きく変化した。そのため著者がアフリカの砂漠で過酷な「美術探検」をくりかえしていた1960年代当時の「探検」に関する状況を確認する必要があるだろう。
 1966年に、京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)に探検部が創設された。学生だった私は創立メンバーの一人だった。当時ワンダーフォーゲル部の部報を粗末なガリ版刷りで毎年発行していたのだが、そこにカラハリ砂漠のブッシュマンについての手記を快く投稿いただいた木村重信先生が、ワンダーフォーゲル部の活動を知り、「わが大学にも探検部があるべきだ」とおっしゃったのが、ワンダーフォーゲル部から独立するような形で探検部を創設したきっかけだった。本書の第VI部「学術調査隊の記録」でもうかがえるとおり、当時の多くの探検隊は大学が組織したものだった。1969年には「京都市立芸術大学ニューギニア未開美術調査隊」の計画が実施され、教員と学生を含めた未経験の探検隊派遣とあってさまざまな困難をかかえたが、木村重信先生の指導力は絶大で、調査隊を派遣する側の中心的なオルガナイザーとして尽力された。
 探検といえば、イギリスに輝かしい伝統がある。イギリス探検界の総元締めのようなものといわれる王立地理学会がウィリアム4世の保護の下で1830年に設立された。この学会の歴史は19、20世紀の大英帝国の地理探検と発見の歴史であるといわれる。イギリスでは国家的な規模で探検が推進されてきた。日本では1956年に大学(京都大学)にはじめて探検部が生まれた。当時の探検部はイギリスなどを除けば比較的珍しかったという。
 1960年代になると日本のほとんどの大学に探検部ができ「探検の大衆化時代」をむかえる。探検における先駆的な成果の出版があいつぎ、数々の探検記がベストセラーとなり、きわもの的な「未開民族」の記録映画が観客を集めた。世はまさに「探検ブーム」「大航海時代に次ぐ大探検時代」と、多少の揶揄もこめていわれるほどだった。高度経済成長とともに海外渡航者数が飛躍的な増加を続けてきたこと(外務省調べでは1966年に年間20万人突破)がその背景となっている。そして地理的探検から人類学的探検へ、さらに各種専門分野を追求した探検へと、探検の性質もこの時期におおきく変化した。当時このようななかで「美術探検」は最先端の響きをもっていた。
 本書の多年にわたる「美術探検」の内容は多岐にわたっている。「探検」というだけあってアフリカをはじめ南太平洋やアジアの辺境の地が調査地の中心となっているが、その足跡は世界各地にわたり、岩壁画、彫刻、建築、仮面、土器、カヌーや生活雑器にいたる、あらゆる造形芸術が対象となっている。またアルカイック美術や部族社会に根ざした美術など、古代から現代までの時代背景をふまえている。この第三巻「美術探検」は「行動する芸術学者」の異名をもつ著者の本領である。
 なかでも珠玉となっているのは、アフリカに関するものであろう。第I部「カラハリ砂漠」はアフリカ最古のブッシュマンの実態と、その祖先が数千年をかけて描きつづけてきた岩壁画を灼熱の砂漠に二ヵ月余り探検した快挙で、「多くのアフリカニストたちが、やりたくてもやれなかったこと」などと高く評価され、第20回毎日出版文化賞を受賞した。著者は「カラハリの住人の過去と現在、あるいはカラハリの自然や動・植物についてのラフ・スケッチを試みたまでである」などと謙遜するが、カラハリ砂漠踏破7000キロは、著者の傑出した行動力が遺憾なく発揮された探検行の圧巻である。その先駆的な業績が世界的なものであることはいうまでもない。
 南太平洋の30以上の島々と南米の諸遺跡を訪ねた第II部「巨石人像の系譜」では、ヘイエルダールの南米起源説を論破して「イースター島のモアイのルーツは、アジアなのである」と結論づけているが、この説は多くの学者によってなされたポリネシア人の東南アジア起源説を美術史学的に検証しただけではなく、ヘイエルダールが1975年に詳細な写真と調査結果をまとめた大著「The Art of Easter Island」に具体的に反論する形でなされていることにも留意したい。
 広大な乾燥地帯を四輪駆動のトラックでかけめぐる第I部と、地表の三分の一をしめる茫洋たる海洋に浮かぶ熱帯雨林の島々を歴訪する第II部のコントラストは、著者の地球的スケールのパースペクティヴを示し、まことに雄大である。
 第III部「アフリカ美術探検」では、「アフリカ美術の発見」から「近代のアフリカ美術」までアフリカに栄えた高度な文明や多様な美術を説き明かす。とくに京都大学大サハラ学術探検隊の本隊隊長として踏破したサハラ砂漠2万五5000キロは、著者の壮大な企画力と偉大な統率力を如実に示している。そして岩壁画だけでも、アドラール・デ・ジフォラスやエネディなどで数多くの新発見をおこない、その制作年代を探るとともに、各地域の相互関連を明らかにした。「探検とはサイエンス(科学)とアドヴェンチャー(冒険)の、魅力にとんだカクテルである」とフックスの言葉を紹介する著者ではあるが、アドベンチャーに満ちた探査記録に加えて、それとは対照的な筆致でここに示された膨大な文献からの検証は、「美術探検」をより確実にするサイエンスの部分でもあろう。
 かつて「暗黒大陸」アフリカについては未知と誤解に満ちていた。黒アフリカ(サハラ以南のアフリカ)には「書かれるに値する歴史」がないなどという先入観が強かったし、アフリカ美術といえば、だれしも比較的近代の「ニグロ彫刻」を思い浮かべるばかりだった。著者は、「19世紀がアフリカの地理を発見したとすれば、20世紀はアフリカの歴史を発見しつつある世紀である」と、第IV部「アフリカ探検史」をドラマチックに描くとともに、16世紀以前に栄えたかずかずの高度な王国文明などについて語る。そして、それらが白人による大規模な奴隷貿易と植民地化によって徹底的に破壊された経緯を明らかにする。
 第V部「アルカイック美術探検」は世界各地の辺境の美術をとりあげたもので、『永遠回帰の美』と題する単行本として刊行された原稿が主となっている。このタイトルに関して、「美術の本質は変貌であって、けっして発展ではないという認識にもとづきつつ、アルカイック美術のもつ永遠的性格とその現代的意味を探った」と、著者はその趣旨を述べている。そしてそのような趣旨を基礎に、たとえば岩壁画に関してだけでもスラウェシ、中部インド、南太平洋、オーストラリア、ブラジルなどへとあくなき探査を続けるのである。とくに中部インドで発見された世界最大規模の岩壁画については、図表とともに詳細な様式分析がおこなわれている。
 本書によってわれわれは古今東西の美術にふれ、貴重な学術調査報告、アドベンチャーに満ちたノンフィクション文学、ドラマチックな歴史文学、諸説文献を検証する学術論文、あるいは各地の民族美術へいざなう手引き書として、「美術探検」の成果の恩恵をいながらにして受けることができる。しかしここで確認したいのは、本書は著者による多年の「美術探検」を収録しただけのものではないということだ。本書に記載されている「探検」についての見解に、なぜかくも精力的な「美術探検」なのかに関しての解答が用意されている。
 曰く、「美術史家はしばしば探検家でなければならない」とある。つまり「百聞は一見にしかず」、現地の人びとの造形活動の息吹を直接に膚でふれる必要があるからだという。しかしまた「百聞は一見にしかず」は一面の真理でしかなく、本当に見るためには、それ相応の過程が必要だと、「心ここにあらざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず」の諺を引用して、的確な視点と精神の集中が要求されることも強調する。
 「あるいはまた、歴史的事象についてはこんなこともいえる。シュプランガーがいったように、歴史はつねに『現在の時間のパースペクティヴ』であるから、現代的な観点を欠いては、いかに歴史的事象を眺めようとも、無意味であるということである」と、現在におけるパースペクティヴを常に検証する必要を力説する。「美術の最初と最後を見ようと考えたからだ」と、先史美術研究の第一人者でもあり、現代美術評論家でもある著者は、おりにふれ古代と現代を同時に研究する姿勢を語ってきたが、その意義を裏付ける考えがここにうかがえる。また「探検」により世界各地の美術現象を実地調査することによって「長いあいだ虐げられてきたイメージの復権」を主張する著者のまわりには、多くの現代美術家が集まるのも当然のこととして理解できる。
 美術史家・現代美術評論家・探検家・芸術家をむすびつける著者の考えを確認すると、いったい何が著者をしてかくも貪欲なまでに世界の辺境の地に足を運ばせしめたのかがわかるようだ。著者のたぐいまれな行動力、好奇心、直感力、思考力、視野の広さなどは「美術探検」をすすめるうえで必要不可欠なものには違いないが、「美術探検」の理由は他にある。逆説的な言い方だが、これだけ膨大な探査行に著者を駆り立てたもの、それは単なる知的好奇心のためではなく、「芸術(人間、文化)とは何か」という疑問を解きあかすためであったように思われる。
 「このような探検家は、芸術家に近い性格をもっているように、私は思う。たとえば未来のイメージを先取しようとして、売れない絵を営々と描き続けている前衛画家のような」と著者は記す。だから「美術探検」の前衛の道をあゆむ著者による精力的な活動は今後もとどまることがないだろう。

 

 


書評 福本繁樹
長野五郎・ひろいのぶこ著 『織物の原風景−樹皮と草皮の布と機−』
『民族藝術』16号 :168-170 (2000年 民族藝術学会刊)掲載


 最近よく聞く「ホームステイ」や「ホームレス」の語は、その意味が「居候」や「浮浪者」とどれほどちがうのか、などといった指摘の記事を読んで苦笑させられたことがあった。たしかに外来語が新しい感覚で用いられることが多い。そういえば「コンテンポラリ」に対しては「当世」が、「リサイクル」には「くりまわし」という伝統的なことばがあった。古いことばが失われつつあるならば、そのことばに、今日忘れられようとしている貴重な意味合いがありやなしや、検証することも必要ではないだろうか。
 戦国時代の「当世兜」には、おどろくべき奇想天外、斬新な造形がみられた。進化や斬新さを求める姿勢は、なにも「コンテンポラリ」の語が用いられるようになってから生まれたわけではなく、いつの時代にも「当世風」や「今様」が求められた。あるいは「くりまわし」には「リサイクル」以上のエコロジー思想があった。
 たとえば、かつて布は貴重品で、よい着物は大切に用いられ、三代着ることができた。着古したその着物も傷みやすい下半身の部分を除いて羽織になり、コートに変わり、なお破れてもしっかりした部分を集めて襦袢の袖や、布団地や、座布団にした。さらには古布を裂いて細くしたものを緯糸に使った、強くてじょうぶな織物 (裂織) から山野の労働着もつくった。木綿の着物は最後にはおしめや雑巾にして無駄がなかった。このような利用方法を「くりまわし」といったが、その心も今や忘れられつつある。
 リサイクルとは「(資源の節約や環境汚染防止などのために)不用品・廃棄物などを再生利用すること」(広辞苑)。それに比較して「くりまわし」には「環境汚染防止」や、資源を「不用品・廃棄物」扱いする意識が希薄だ。工場で機械や薬品やエネルギーをつかった処理によるリサイクルではなく、伝統的な知恵や手の加工によって資源をとことん活用するのが「くりまわし」だとすると、それはもっとも有効なエコロジーではないか。
 もうひとつ、「テキスタイル」には「布帛」という語がある。「布帛」とは「ぬのときぬ」のことで、「布」は麻・葛(かずら) などの繊維で織った織物のこと、『広辞苑』には「古くは絹に対していい、近世以後、もめんも含む」と加えられている。また「帛」は絹織物の総称である。つまり古くは庶民が用いる麻と特権階級が用いる絹の二種があり、「布」と「麻」はほとんど同義だったわけだ。木綿が一般的となるのは近世以後である。

 この古い意味での「布」について、初めて本格的な研究書が出版された。長野五郎・ひろいのぶこ著『織物の原風景』で、樹皮と草皮からつくられる布と、その機織りについて、きわめて具体的に布の伝統を紹介している。すぐれた現代染織作家としても知られる著者が、丹後半島の藤織りに偶然出合ってから20数年、以後全国と東アジア各地に足をはこんでフィールドワークを続けた集大成である。「手の動きそのものが理解を深める有効な方法であることを、私どもは直観的に感じとっていた」という作家が、フィールドで自ら布作りを体験した目によって、各地の布作りのようすを詳細に描写する。
 この書物は、失われゆく文化の克明な記録であり、日本を取り巻くアジアの多様な織物文化がどのように相互関連してきたかを比較検討する貴重な資料を提供する。また染織の専門書にとどまらず、自然とともに生きてきた人々の「もの」作りの基本的な姿勢についても具体的に示す。著書をひもとくほどに、なにゆえ東アジアの樹皮と草皮の布なのか、またその製作過程の克明な記述なのか、あるいは著者が研究者であるとともに染織家でもある意味は何なのかが理解できる。そのためには、まず「績(う) む」という糸作りについての認識が必要だ。樹皮と草皮の布が、近代になってからも世界からどんどん失われてゆくことや、東アジアにおいて特徴的なのは、「績む」という糸作りの方法が原因しているのだという。
 綿や繭を糸縒車にかけ、その繊維を引き出し、撚りをかけて糸にすることを「紡ぐ」、麻や苧(からむし)などを細く裂いた繊維を縒りあわせて長くつなぐことを「績む」という。このふたつの糸作りの方法をあわせて「紡績」とするのだが、タイマやチョマを績むところを目にする機会が失われてすでに久しく、「麻糸を績む」という言葉の意味もほとんど知られなくなってしまった。
 「紡ぐ」はどんどん機械化されたが、「績む」は今日なお手作業でつづけられている。「紡ぐ作業や撚りかけの作業には、早くから原初的な紡錘や、手回し、足踏み式の紡ぎ車が導入されていくが、この績む作業だけは終始一貫手の作業であった。アマやタイマ、イラクサなどのヨーロッパでみられる靱皮繊維は、すべて『紡ぎ』の方法で糸になるのであり、この『糸績み』は、現在はヨーロッパには見あたらない」(著書より)という。「績む」という糸作りは、人の手の熟練や労働を必要とするために、東もしくは東南アジアにおいて特徴的となっているようだ。
 著者は書き綴る。「樹皮と草皮繊維に使われる植物は、元(根元側)と末(先端部)という方向性を持っており、この属性が採繊から織物になるまでの工程で特定の扱いを強いてくる。というのは糸の撚りかけや整経などの工程で、元から末へという方向で扱わねば毛羽が立つために、必ず糸の方向を意識して扱うか、ある段階からは糊付けなどの何らかの加工を糸に施さなければならない。ところがこうした繊維のゆえに、方向性という視点から織までの祖形を類推し、確定することができるのである。この意味で、樹皮・草皮繊維を素材とする織物は大変重要な意味を持っているのである。これに対して絹や木綿はこうした意味では無方向性で、そのためにあらゆる整経と、考える限りの機で織ることが可能である。このことが、一面では絹と木綿の織物文化の祖形を、繊維の方向性から想定することを困難にしているのである。」
 紡ぐ繊維素材に比較して、績む繊維素材は不均質である。機械加工の素材は、まず均質化されるから、われわれは素材とは均質なものであるという認識になれているが、自然のものはすべて「不均質」なものである。このような自明のことさえ、われわれは忘れがちとなる。自然に根ざし、天然素材を利用して生きてきた人々のもの作りは、素材の不均質に従い、これを損なうことなく対応して、生かそうとする姿勢にある。しかしこのような工夫は、作り手にとってはまったく当然のこととして言葉にされることもなかった。そしてこのような視点にたった織物文化の研究もほとんどなかった、という。
 「『元から末』ということばが研究のキーワードとなって今回の本に集約された」という著者は、自然とともに生きてきた人々の、素材の属性に従い、これを損なうことなく生かそうとする、もの作りの姿勢を具体例とともに示す。その一方で、科学文明によって選別・改良・合成された「均質」な素材にならされたわれわれが、「元から末」という言葉を忘れていることを気付かせる。忘れていた言葉を取り戻すことによって、かつての織物文化のエコロジカルな構造が読者に少しは理解できるのだ。
 もの作りを機械にまかせたわれわれは、精妙な手の機能を発揮する機会を失った。製作のプロセスに五感を働かせば、「もの」はさまざまなことを体感させ、発見させてくれるのだが、われわれはこのことにほとんど盲目となり、「もの」の生態を探る感性を鈍らせている。この感性こそ、未来の文明のために決して失ってはいけないものではないか。

 地球環境破壊が危機的状況にあり「エコロジー」が人類の未来にとって決定的な問題となっている。1998年に『広辞苑』が7年ぶりに改訂された。新たに見出し語約1万項目を増補したという『広辞苑』(第五版)には、「エコロジー ecology」の意味に、これまで「生態学」としかなかったが、「 2環境保護。自然保護運動」が加えられ、「エコ・ツーリズム」「エコ・ビジネス」「エコ・マーク」「エコロジカル」などの語も新しく見出し語に加えられた。
 現代美術の世界でも「エコロジー」が重要な主題となって久しい。山野で集めてきた草木や石ころ、あるいは再生紙や空き缶などのリサイクル素材が美術館を占拠する。自然の姿を新しく見直そうとする「エートルナチュール etrenature」の企画も話題をよぶ。お役所が「地球にやさしく」とよびかける美術コンクールでは、巨大なエコ素材の作品が表彰される。「エコ素材」「エコ・モチーフ」「エコ主題」が大流行りだ。それはエコロジーにとってまことに結構なことで、推奨されるべきだとは承知するのだが、きわめて深刻なエコロジー問題の解決にはまことに心もとなく、ときには安直な発想の乱立ではないかと辟易させられることもある。
 かつて文化がエコロジカルであった時代には「エコロジー」という言葉が知られてなかった。自然に生きる人々のもの作りの姿勢は、大自然の摂理に耳を傾け、天然素材の性質や可能性を五感で探り、科学や論理ではなく試行錯誤の体験によって技術を開発しようとするものだ。謙虚な姿勢で自然のあらゆるものを生態のうちにとらえようとする資質こそが、大自然の恩恵を甘受するための条件であろう。その生き方には、人と自然とが一体になろうとする英知に満ちている。『織物の原風景』は随所にこのことを示してくれる。

 


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