工芸教育研究会主催 鼎談─大学と工芸
工芸教育に求められるもの
パネリスト: 中村錦平(陶芸家・多摩美術大学教授) 宮島久雄(国立国際美術館館長) 司会: 柳原睦夫(陶芸家・大阪芸術大学教授)
大阪芸術大学芸術情報センターAVホールにて、平成10年6月26日
鼎談パネリスト、左より柳原睦夫、中村錦平、宮島久雄(敬称略)
●柳原(睦夫) 私はホスト役ということで、狂言回しと申しますか、そういう役割を担いたいと思います。きょうは宮島久雄先生と中村錦平先生にご意見を伺います。ちょうど宮島先生は国立国際美術館の館長に就任されたばかりで、非常に新鮮なお気持ちでいらっしゃるし、中村先生は多摩美術大学工芸学科が新設された、その産婆役をされて、産みの苦しみを経験された。お話し合いをするのに時期がよろしいということで、今後の工芸のあり方、工芸教育のあり方を歯に衣を着せずに本音でお話し合いをしたい。
冒頭にお二人の先生方にお話をいただき、それを受けて3人でいろいろと話をしていきたい。そういうことでよろしゅうございますか。では宮島先生から……。
●宮島 今回の鼎談参加者のうち私以外のお二人はおしゃべりで名高いというので期待して来ましたが、私はおしゃべりではありません。現在私は国立国際美術館に勤めておりますが、かつて10年ばかり大阪芸術大学に勤務して、デザイン学科に所属しておりました。専門は近代デザイン史です。私自身、もともと文学部の美学・美術史卒業で、デザインの歴史などをやるときは、すでに本筋から離れて脇からものをみる姿勢に慣れておりました。そういうことをずっと続けておりまして、この4月からは国立国際美術館の館長みたいな似合わないことをやっておりますが、美術館においても、専門というよりはちょっと側からみた姿勢が生かせるんではないかということでやっております。そういうことで、きょうも「日本における工芸の歴史」を少しお話しようと思います。
21世紀を迎えるにあたって、とりわけ最近はモダンあるいはモダニズムが、ポスト・モダンとかポスト・ポスト・モダンとかいろいろなことが言われております。そのようななかで
100年あるいは
200年というスケールからものを考えることが、今後のひとつのパースペクティブを開いてゆくんではないかと思っています。
日本は鎖国の前は東の中国に向いていましたが、明治になってモデルを西に、西洋にとりました。そのときに入ってきたのが、現在の考え方になる西洋ふうの考え方です。西洋をモデルに、まず西洋ふうの社会、近代国家を技術的につくってゆくんだというなかで、美術もそういうことを学ばないといけない、技術として芸術を取り入れないといけないということで最初はやったようです。日本が最初に戸惑ったのは、そもそも西洋ふうの芸術とかアート、あるいはファイン・アートというもの、たとえば油絵とか、大理石やブロンズなどの彫刻に匹敵するものが日本にはなかったことです。
そのときに、現在でいうシステムとして取り入れるというので、盛んに技術の制度化をすすめました。近代化というのは制度化であったというようなことが言われますが、そもそも西洋におきましても日本が国を開けた19世紀の中ごろは、20世紀に向けて、それまでの古い考え方から新しいものへ向かっての根本的な変革が起こりつつあったときで、技術という概念が従来のものから非常に変わりつつありました。そのようななかで日本は、二重の意味で変革に立ち会うことになります。西洋と歩調を合わせて、美術をどのような概念で位置づけてゆくかということを日本人自身がやることになりました。日本のものはだめで、西洋のものがいいのであって、それを取り入れようとしたときに意外なことに西洋で日本の古来のものが非常に評判になりました。そのときに日本人がたいへん戸惑ったわけです。
当時の西洋の美術に「装飾美術」という考え方が基本にありました。とくに建築なんかにその考え方が強くて、建築が芸術であるとすれば、それはもともと装飾がついているからであると考えたようです。そういうわけで最初、建築では装飾を芸術・美術の拠所しました。
日本には油絵やブロンズ彫刻があるわけじゃない。日本の岩絵の具の絵画、さまざまな材料を使った工芸関係のもの、それらはすべて「美術工芸」というかたちで取り入れる。先ほど言いましたように、西洋も美術を独立させようという傾向、工芸品を含めたような世界から、美術だけが精神的に高いものであるというかたちで独立させようという傾向がありました。そのような立場からいえば、日本の美術品はすべて工芸品であるという見方をすることもできる時代でした。そのような時期に日本は国を開いたわけです。
したがって工芸というものが最初からモデルとしてあったわけではありません。またそれに応じた純粋美術──当時は純正美術といっていましたが、純正美術というようなものがあったわけではない。西洋のほうは盛んに純正美術、いわゆるピュア・アートがなんであるかを模索している時期だったのです。
宮島久雄(国立国際美術館館長)
美術史では20世紀になってから新しい流派として、いわゆるサロン芸術とは違う、先端をゆく芸術が「アバンギャルド」という言い方で、非常に前衛的なかたちで出てくることになります。そのいちばん最初は、おそらく印象派になると思います。そういうわけで、いまから100
年ばかり前の1900年ごろの状況というのは変わってくるんです。
純粋美術では印象派なんかが出てくるんですが、そのあとで印象派の美術も取り入れるようなアール・ヌーヴォーが、流行の現象として世紀の変わりめに起こります。これが工芸から純正美術まで、建築も含めて、幅広い影響を与えることになります。
アール・ヌーヴォーでは、建築も工芸も絵画もすべて、同じ造形の原理で作品ができてしまうといわれます。そのような作品のつくり方が出てきました。私が思うのは、これが20世紀のもののつくり方を規定したと思うんです。概念としては非常に細分化してゆく、そのなかの純正美術はこうだとか、工芸はこうであるとか、デザインがこうであるとかいう専門化が20世紀になって進みます。20世紀のもともとの出発点は、アール・ヌーヴォーという──これはフランス語で「新しい美術」「新しい芸術」「ニュー・アート」という意味なんですが、そういうつくり方が基本にあるのではないかと思います。
比較的長い物差しでみると、戦後、工芸も美術的な傾向をとりました。しかしその根は、20世紀の初めのアール・ヌーヴォーという時期のつくり方にあったのではないかと思います。
きょうのテーマは工芸を教育と結びつけるということですが、私自身思いますのは、工芸を教育と結びつけることよりは、あまりジャンルにとらわれることなく、ものをつくる基本的なことを考えるのが非常に重要なことではないかと思います。
●柳原 つぎに中村先生、よろしくお願いします。
●中村 いま宮島さんが、ジャンルにこだわらずにものをつくることが大切なんじゃないかと締めくくられたんですが、ぼくもやっぱりそうだと思います。ぼくが勤務する多摩美術大学が今年の4月から工芸学科をスタートさせたんですが、じつはぼくは「工芸学科」という名前は避けたくて、「工作学科」にしたいと言ったんですが、学長と理事長に「そんなのは文部省から許可されない」と反対されました。最後の最後までごねると向こうは抑える。最後にぼくは「ああ、これは学長と理事長と教務部長のぼくへのレイプですね」といって、泣く泣く「工芸学科」にした経緯があります。
「工芸」は歴史をもついい言葉でもあるのですが、けっこう垢もついてます。じつは長い歴史の工芸──陶器もそうですけれども、たとえば伝統工芸もありますし、私達はじつはそういうのに対しては批判的で、先程柳原さんと打ち合わせしていたときに「われわれは戦友ですね」なんて話がはずんだのですが、新しい動きを日本にと思い続けてきたほうから言うと、そんな垢にまみれた言葉ではなくて、もっと原点をつくような、「ものをつくる」というくらいの意味の言葉がいいという気持ちがありました。
「工芸」という言葉からいうと宮島さんのおっしゃるとおりで、ちょうどいまから100
年前の1899年に岡倉天心が、ピュア・アートとインダストリアル・アートとを分けるという、西洋人の美学の方式ににとらわれることはないんじゃないかと言った。1899年に、美術学校に西洋史の講座が初めて設けられた。それから来年でちょうど100
年です。その間、工芸という概念がどんどん変わって、ぼくが「工芸」という学科名にあえてこだわりたくないというくらいに変わっています。
多摩美術大学で今年から工芸学科をスタートさせるまでは、ぼくは永年油絵のコースのなかで「陶芸」を教えてきました。学生は大学で油絵を2年間やって、3回生になるときに版画か油絵か焼き物、この三つのどれかを選択するという制度でした。ですから去年までは、工芸ということを意に介することなく「つくりたいものをつくんなさい」、それを支える教師ででよかったんです。
油絵、ファイン・アートというもののなかでいいものを創りたいという学生といっしょに、ぼくはずっとやってきて、今年から工芸をはじめた。英語でいいますと「メタル・グラス・アンド・セラミックス・デザイン」、最後にデザインがつくんですよ。ぼくには、ファイン・アートとデザインの間あたりにある、不安定だけれども可能性がありそうなところを受け持ちたいという気があったので、いやだなという意見をもちました。だけどやはり大学は文部省を気にしてデザインのなかに焼き物を入れてしまった。
案の定、入ってくる学生はデザイン志向でした。これまでの油絵からの学生はファインということに自意識が強くて、デザインなんていや、こんなデザイン科のなかに含まれるのがいやだみたいなところが伺えました。
油絵からデザインに変更したなかで教育をやっていて非常に印象的だったのは、3回生になったときに1年間手ほどきのカリキュラムをやるのですが、以前は最初、今年は不作かなと思うくらい学生のやることがだめなんですが、2年めくらいにめきめきと力をつけてゆく傾向がありました。今年は現在6月なので4月からまだ3か月しかたっていないんですが、少なくとも油絵のときの学生よりずっと上手ですね。怖いくらい上手です。ツボを知っているというか……。やっぱり、デザイン志向というのはこういうことになるんだなと思ったのは、世の中のプロトタイプみたいなものがちゃんと学生の頭に入っている。それで、それをちょっと変えたりするのが上手。油絵でやってきた学生は、からっきしそういうことがわからない。
工芸学科の学生は、自分のつくったもので部屋を飾りたいとか、料理を盛りたいということを言います。油絵で育った学生からはそういうことは、20年近くやっていた間にただの一度もきいたことがなかった。使うものをつくりたいとか、明かりをつくりたいとか、なにか自分の身のまわりのものをつくりたいとか言う学生はいなかった。
今年から工芸学科をスタートさせ、ぼくの同僚で井上雅之がいますが、井上君のカリキュラムのなかで、なにか使えるものをつくった学生がいたので、井上君は顔をしかめたらしい。そしたら、「なんで使うものをつくって悪いのか」と学生から吊るし上げをくったらしいんです。そのときに井上君は学生にどういうことをやりたいか文章を書かせた。ぼくなんかも、学生がどう思っているか、どう言いたいのかをつかみながら教育してゆきたいという願望をもつほうの教師なんですが、井上君も書かせた。
そのなかから一部読みますと、いま言いましたように、工芸学科に初めて入ってきて3か月ばかりのものです。「見るという行為を含めて、広い意味での使うものと考えたい」。われわれの若いときのように「機能的であるものが美しい」とはさすがに言わなくなった。次に「シンソウ心理に触れるものなら、アート・工芸、関係ない」という学生もいた。この「シンソウ」のソウが、レベルの「層」ではなくて「想」、「深想」と書いてあるところがおもしろいんですが。もう一人は「コミュニケーションをしたい。だから、ものをつくりたい」。「使ってもらうより感じてもらうのものをつくりたい」という考え方もありました。
クラフトとアートを比較する学生は、「クラフトというのは目的を意識している。アートはまったく自由」「一定の基準をクリアしたものがクラフト。アートにはそうした基準がない」。これらはそれぞれ別の学生の文章です。「使うものとか使えるものというように考えないで、使うものと使わないものという意識でつくったほうが純粋でいいんではないか」「アートには思想があって、クラフトには思想がない」。目立ったのは、こういうところです。
「工芸」が変わってゆく、100
年も経れば変わってゆくのはあたりまえのことで、変わらないほうがおかしいという気がします。時代の変節、変わりめには、かつてなかった表現方法や、表現自体がかならず現れましたから、ぼくはもうさよならしてゆく世代ですが、学生相手に望むとすれば、若い世代はなんらかの新しい表現を時代の変節とともに見つけるに違いない。それにあたって、工芸というものの従来の垢がたまった概念に自らとらわれることなんか、からきしないとぼくは思っています。
入学試験で今年はじめてぼくらは実技試験を2種考えたんですが、それは「人物を描写する」と「自分の関心事を粘土でつくる」だったんです。モデルを使って描かせるというのは、ひとつは、形を捉える確かさがあるかどうかを見たかった。粘土でやらせるのは、どれくらい実材を扱えるか、ものをつくれるか、みたいと思ったわけです。
なかなかおもしろい結果だった。陶器、グラス、メタルの3コースがありますが、陶器のコースは明らかに失敗でした。なぜかというと、予備校に通っている受験生はちゃんと前衛ふうの形をつくるんです。それが八木一夫や熊倉順吉らの亜流なんです。研究所の先生というのは、アルバイト学生とか助手クラスですから、レベルが高くなく、「あァ現代の工芸は八木さんと熊倉さんをよしとするんやな」となる。ぼくらにすると八木さんを超えねば嘘だという考え方で教育しようとしているのに、研究所の先生はあのへんをめざせばOKとしてくるんだと、粘土の課題やって難しいと思いました。
いまぼくは工芸がおかれている状況をおもしろいと見ているのは、なんといっても近代主義が行き詰まってしまったことに、どう応えられるかですよね。環境問題だとか、核問題だとか、極端にいえば、人類は地球を自滅させれるところまできたわけですからね。
もうひとつ、電磁波のバーチャル・リアリティというもの。かつてメディアは実在の物体でしたよね。それが電磁波になって実体の掴めないものになったわけでしょ。工芸の素材というのはみんな手で掴めるものです。ところが、電磁波がメディアになって、しかもそれが地球規模でかけめぐる。ですから、手仕事・工芸というのはアンチ電磁波といえます。電磁波によってできないもののなかで、なにをやれるかということを問われている。それへの答えがなかったら、工芸なり、ものをつくることに確信をもてないんじゃないか。ある意味では、縄文時代に遡るくらい古臭いものに、どういう新しい価値観を盛り込めるかということが問われているんだと思います。
それからもうひとつは、山田慶児さんの言葉で「総合させての人間的行為」というのがあります。近代主義のなかで生産は分業分担します。まず計画をする人、材料を探しに行く人、つくる人、売る人。かつては「総合させての人間的行為」で、一人の人がなにかほしいな、つくりたいなというので、計画する、材料を探しに行く、つくる、完成するということは一人の人間の総合的行為でした。これをみんな近代主義は効率を求めて分割してしまった。それにたいしてアンチだとか、抵抗するというか、これでなにができるかということを工芸は答えられますか、ということだと思うんです。
もうひとつ、これは工芸の特質、ファインたろうとせず、生活とどういう関わりをもつか。ファイン・アートは自律したアートですし、工芸は生活のなかでなにかに付随した状況で展開します。生活とどういう関わりをもつモノをどうつくるか。あるいは、魯山人は星岡茶寮時代の雑誌『星が岡』で「思想なくしていいものはつくれない」といいました。はたして魯山人に思想があったかどうかはともかく、思想でなくても生活観、どのような生活が望ましいか、それを持つことが大切だと思います。
もうひとつは、いまは電磁波の時代ですから如実に現れてきていますが、ボーダーレスといって国境がない、工芸とデザインの境がない、アートとデザインの境がない。そういうことのなかで、どういう答えをだせるかです。
このあいだわが大学に彫刻科の棟ができて、先生、助手達による作品発表会がありました。ぼくはそれを見て、ああ工芸臭いなと思った。どういうことかというと、手先の仕事が上手、だけど新しいコンセプトとか概念が希薄。だから、日本人というのは工芸的なものが好きな民族だという気がした。「ファイン様式」に惑わされることは馬鹿げていると思ったんです。
むかしの日本語でいうとああいうのは「置き物」といいます。べつにファインだ、工芸だといわなくて「置き物」です。平面の作品に対しては「掛け物」という言葉がある。べつにそういう見方でもいいんじゃないかという気がします。
インスタレーションの概念をもったものに「しつらい」という言葉がある。お茶でどういう掛け軸、花入れ、水差し、抹茶碗で構成、配置するかが「しつらい」。それは「室礼」とか「設い」と書く。そのような「置き物」「掛け物」「しつらい」でいいんじゃないかなというくらいにボーダーレスになってきている。
中村錦平(陶芸家・多摩美術大学工芸学科教授)
話を戻しますと、近代主義に対してどういう答えをもっているのか。電磁波によるバーチャル・リアリティという手で掴めないものにリアルを感じる現代文明が、古臭いものとして廃棄してしまったもの、それを支えていた精神までも捨ててしまってかまわないのか。「総合させての人間的行為」として復活させなくてよいのか。ボーダーレスに対してどんな答えを出すのか。このあたりが工芸に対する答えを握っているのではないでしょうか。
教育についてぼくが思うのは、こういう時代の変節点で「教え込む」というのは不可能だと思います。どちらかというとコーチとかトレーナーみたいな役割で、それぞれ若い人のいいところを励ましたり、育てたり、おだてたりしながらやる。教育者というよりは先輩。
これは孫引きなんですが、明治の初めに日本美術院が再興の三則を掲げました。「日本美術院ハ芸術ノ自由研究ヲ主トス。故ニ教師ナシ先輩アリ、教習ナシ研究アリ」という言い方をしています。ぼくも、とてもじゃないが教習する自信はなく、どちらかというとコーチとかトレーナーとしてのカリキュラムを組んでやっています。
●柳原 私は最後に中村さんがいわれたことを心丈夫に思いました。いったい教師が教えられることはあるのだろうか、そういう大きな問題を投げかけてくれました。
それから宮島さんのお話についてですが、私が若かったころ、アール・ヌーヴォーというものは悪しきものだという捉え方を、学生時代から教えられたことを思い出します。たとえば、通産省なんかで指導的に出してくるデザインに「グッド・デザイン」がありまして、それは白っぽいものであったり、機能的なものであったり、そういう時代にはアール・ヌーヴォーこそ疎ましいものであると考えられていました。授業のなかでもアール・ヌーヴォーを掘り下げて教えるようなことはなかった。
だから、いま私たちの認識で欠落しているものあげると、アール・ヌーヴォーなんかその最たるものじゃないかと思います。アール・ヌーヴォーについての一般的な知識は私もありますが、教えるとなれば荷が重過ぎて、授業としては取り上げない。そういうことで宮島先生のアール・ヌーヴォーの紹介は、とてもおもしろかった。作品をつくるときの原理は、すでに建築も工芸も美術もアール・ヌーヴォーのなかでは同じであると、非常に示唆に富んだ話だと思います。 宮島先生、だいたいアール・ヌーヴォーというとどれくらいの時代でとらえたらいいんですか。
●宮島 明治の30年代です。歴史的に見れば、1900年の前後、1895年から1905年くらいまでになります。
●柳原 それではこれから鼎談に入りますが、私の考え方をほんのちょっとかいつまんで申しあげておきます。私は数学が嫌いですが、微分とか積分とかいう言葉をいま思い出しています。
微分的な考え方というのは、現代が基盤であって、未来は現代のうえに築きあげられるという考え方、それをよしとする教育のあり方ですね。明治以後の教育かもしれませんが、大学でも普通はそういうふうに考え、日本人はとくにそういうやり方に馴らされてきた。現代だけを情報として非常にたくさん教育し、そのうえに未来をつくるというやり方に対しては、私は非常に批判的なんです。
積分的な考え方というのは、現代は過去からの積み重ねの上に現代という表層があって、現代は表層にすぎない、だから、現代を考えるためにはつねに原点にまで戻る。さいわい焼き物では、縄文時代からの解明された事例や資料がたくさん残っていますので、それにフィードバックしてまた現代に戻ってくるという頭のなかでの思考の繰り返しをしながら未来を考える。そういう思考のメカニズムを、私は積分的思考と名づけています。
いまは古いことを言うと「保守的」とか「伝統主義」とか、「伝統工芸とはそんなものか」というような反応を反射的に示される。古くて貴重なものを現代の目で検証してゆく作業はやはり面倒くさいし、さっそうとした教師の教育態度ではない。しかし現代のファッションを身につけるように現代芸術、あるいは現代工芸を身につけてゆくやり方にたいへん疑問を感じています。
これは私の責任でもありますが、学生が八木一夫というような人の作品から焼き物を始めていたとしたら、たいへんに情けないことで……、私にとって八木さんは絶対的なある種の存在ではありますが、教育のときにはひとつの事例にすぎない。
戦後の陶芸に関して言いますと、走泥社だとか八木一夫だとか、そういうことを過大に取り上げているんじゃないかという気がします。もしそういうことを考えるなら、焼き物の歴史のなかでそれがどういう意味をもつものかということを検証しなければならなかったのではないか。そうしますと、まがりなりに未来が少しみえてくるかもしれない。
柳原睦夫(陶芸家・大阪芸術大学工芸学科教授)
現実の教育のあり方では、私たちには未来はとても見えていません。私たちはすべてなんでもバリエーションをつくってゆく、バリエーションをつくることに天才的な民族であるという。私はこれを日本人の悲しむべき個性だと思います。
そんなことで、若干悲観的ではありますが、二人の先生からいろいろご意見が出ましたので、これから「大学と工芸」というテーマにお答えをしなければと思います。中村先生、さらに言い足らないところが多々あると思いますが、どうぞ続けてください。(笑)
●中村 ぼくは教師をやって給料をもらっているわけですから、作り手であると同時に教育者でもあろうかと思います。いちばん難しいのは、どういうパラダイム・枠組みで工芸をいまの時代から読みとるかということ。また工芸である以上、技・技術が大切ですが、どういう指導なり紹介の仕方でやるのか。ぼくにとっては、その両者の関係が何より難しい。
ぼくのことを考えると、ぼくは茶碗屋の伜ですが、茶碗屋の伜だからといって親父から「釉薬の厚みをきれいに塗るには布のりを入れる」とか、せいぜいそういうことは教えてもらったほうがいいんですが、技術的に「ろくろはこんなスピードでこんなふうに」と言われたりしなくてよかったなという気がしています。
タタラ(蹈鞴)と呼ぶ粘土板の技法、そのタタラというものは茶筒を巻いてやると一輪挿し的になるでしょう、タタラというのはこういうものですよという、あの教え方は恐い。ものをつくるときには、タタラがあったり、縄文土器のように紐づくりがあったり、石膏型を使う方法がある。このへんまではいいけれども、手を下ろして「茶筒に巻くんですよ」とやると、頭の固い学生は、タタラというのはなにかを中心において巻かんならんのやなと思い込む。そうすると、そういう教室から出てきた学生はタタラでみんなこれをやる。発想に自ら限定を持ち込んで危険です。
それよりもなにかの概念の発見がらみで形を探させる。そのとき、タタラがいいのか、紐づくりがいいのか、型がいいのかを探させて、独自のものをつくる、発見させるという教育のほうが、教師の変な癖や、技術に通じる固定概念につかまらなくてすむのではないかと思います。
1964年、東京オリンピックの年に「現代国際陶芸展」があった。そこでアメリカ陶芸を見てぼくなんかはびっくり仰天、こういうことをやる者が世界にいたのかと驚きました。ぼくらより上の、たとえば人間国宝たちは「あれは彫刻的なものであって、工芸ではない」とサバサバしていられたんですが、ぼくや柳原さんは「これではいかん」とアメリカに出掛けて行った世代なんです。
彫刻家の柳原義達さんがその展覧会について「日本陶芸の敗北」という一文を『芸術新潮』に書いた。それは、技術だけでこと足れりとする作品が日本の陶芸に目立つという見方だった。アートには心揺さぶるものがあらねばならない、現代に生きる陶芸であらねばならない、なぜ生きているのか、だから何をやりたいんだ、何を叫びたいんだというものがない焼き物は、焼き物であってもアートではないという言い方だった。ぼくらはもろに共感して、人間国宝のつくる技術重視でしかないような、たとえば、ちょんまげ時代につくっていた桃山や織部を、ちょんまげをなくした時代の人が同じものができるはずがないという、時代背景も必然性もないものをやろうというのは、アートとして弱いということを1964年に学んだ。
それが、1994年に山崎正和さんの批評を読んで、ああ日本というのはこういう国だなと思った。1994年といえば1964年から30年後、それは名古屋の朝日新聞がやっている「朝日陶芸展」についてですが、ぼくはあれが大嫌いです。なにかこんな技を凝らした壺を……、大阪芸大にグランプリを取った人が何人かいたかも知れないけど、でも大嫌いです。(笑)多摩美が誇りにいたしますのは、入選させていただけないということです。(笑)
日本の知識人だと思いますが、山崎正和さんの評論のタイトルが「伝統を基本に洗練された技術」とあったんです。技術はすばらしいという文章なんですね。1964年から30年たった1994年に、日本の文化人の代表でもある人が「伝統を基本に洗練された技術」と。
人生で何かを長い間続ければ、技術は上手になり洗練される、だけど恐いことにパワーはなくなるという宿命をどう克服しようかしらと、ぼくらは1964年に思った。だけど、日本の社会はやっぱり「工芸」志向というか、技術重視美術というか、洗練を好むというか……。1964年、あのときの反省と気勢は日本国にはもうない、パワーや叫びよりは洗練を好むんだなと思いました。
教師が1964年の体験を重視しているのですから、ぼくのカリキュラムの組み方はやがて時代後れになるんでしょう。──ぼくも20歳代のとき60歳代の先生をみると、先生は現代的だとおっしゃるけれど、あんなものどこが現代的かなと思ったわけです。やがては順送りの宿命でそうなってきたなと……。(笑)
きのう、ぼくは信楽にいたのですが、「大小屋」という販売店のなかで、ぼくらの仲間で笹山さんがいますが、そのお嬢さんがクラフト店をやっている。そこで当校出身の堤展子さんなんかの3千数百円の香炉みたいな、あんなへたうま様式のものがどんどん売れるという。(笑)その横においてある、きれいにろくろでひいてある、やっぱり3,000
円くらいのものを若者はどう言うか。機械ろくろでつくったもののほうが安くてもっといいと言うそうです。
要は人間の技をどうとらえるか。堤展子さんは、ぼくらの世代から言えば、へた様式を臆面もなく出す。それが評価につながる。一方、機械ろくろにも匹敵するという手ろくろの技は評価をしないという見方が出てきて、ぼくの美的なセンスもそろそろおしまいかと思って、大きなカルチャー・ショックでした。
そういう意味で、工芸や、工芸教育のなかで技術をどう捉えてゆくか、どう紹介してゆくかは難しいことだという思いがあります。技術が基本だといいきれる人が羨ましい。
●柳原 美術学校には二つの教師があります。理論を教える教師と実技の教師で、現実にこのように分かれているわけです。理論の先生にもいろいろと問題があると思いますが、問題は実技の先生なんです。
実技は実技だけかというと、そうではなくて、理論の裏付けがなくては教えられない。すると実技よりも理論のほうにだんだん傾斜してゆく先生が出てくる。しかし、勉強が嫌いだから職人的な技術本意の、実技一本でゆくんだという先生ももちろんいるし、そういうのが変に絡み合って、戦後の美術大学は今日まできているわけです。
宮島先生、美術大学の、とくに実技関係の教師についてご意見があれば……。
●宮島 正直に言いましてまったくわかりません。(笑)私は大学ではずっと実技系の大学に勤めてきました。今年になって美術館に移る少し以前に、初めて文学系の私の出身大学(京都大学)に戻ったんですね。それで考えたのは、さっき中村先生が言われた「教える」ということです。いちばん最初に感じたことは、学生に教えていて、自分のほうが逆に勉強になる、どちらかというとそんな感じです。
たとえば実技系の大学で歴史をやっているときは、知識はこちらのほうがありますから、それを伝えるという感じです。学生が関心を示さなかったら、それはそれでつくる人だから構わないんだと、私はそのように思ってました。
けれども文学部にゆくと、こんどは研究という同じようなテーマをもって、どう考えるかとか、どのようにそれをとらえるかということになるわけです。そうすると、私が考えていることが正しくあるかどうかが問題になってくる。学生がどう考えるか、また学生が考えることをこちらがどうとらえるか、そういったことが基盤にありまして、もともと実技の先生も同じような立場に立っておられるんだなと感じました。
学生に対する教師のリアクションはいろいろあると思うんです。教育的な先生だったら学生をうまく育てるだろうし、作家的な先生だったら、この傾向の学生はおれは嫌いだといってはねつけることもあり、自分に理解できる作品をつくるような学生だけを認めるということにもなると思うんです。そういうことを考えると、どちらがいいかはよくわからない気がするんです。
先程言いましたように長いスパンでものを見まして、現在の学校教育、いわゆる公教育というのは、はっきり言って失敗じゃなかったかと私自身思うんですね。
ものをつくるというのは、もともと徒弟教育だったわけです。徒弟教育というのは教えてもらうんじゃなくて、先生のやっていること、師匠のやっていることを盗むわけです。盗むというのはつまり欲しいから盗むんであって、欲しくないものは盗まない。自分の師匠は自分が求めているものをもっているかどうかは学生のほうが判断するわけです。ある一定期間は師匠について、その師匠に教えられたことを習得すれば、こんどはその先生のもとを離れて旅行するわけです。そして、ほかの師匠についたりすると、自分が盗もうと思っていた以外のものがほかにあると、さらに知るわけでしょうし、そのようなシステムのほうが、「ものをつくる」ことについては、これからおそらく参考になるんじゃないかという気がします。
もしそれを公教育に取り入れるなら、大阪芸大にも先生はいろいろおられるんですが、さらに拡げて各大学で学生の交換というか、単位の相互取得制度といいますか、そういうことをやるのもひとつの手ではないかという気がします。
●柳原 いまのご意見に私も同感ですが、現状を考えてみますと、大阪芸大には7千数百人という学生がこのキャンパスの中にいて、教師は定められた時間にやってきて、授業が終われば帰ってゆく。私はこういう教育のなかで新しい芸術教育のあり方を模索してゆかざるをえないのですが、本来的には私のアトリエがここにあって、私は家からここに仕事をしに来る。ガラス張りのアトリエのようなものがいいかもしれませんが、学生はしょっちゅう教師の仕事を見る。もちろん、そこに入ってきて雑談をしたりなんかする。従来そういう大学がないことはないんで、私が学生のときはそういう状況がありました。
しかし、いまはそれは物理的に不可能です。だから作家が大学で研究・制作をして、それを学生が直接見ることができる、そのようなものを大学院でつくろうと、大阪芸大の場合はそういう考え方があるようです。どこまで実現できるか……。
現状はさておいて、この教師が作家であるということ。批判を覚悟で申しあげますが、私は実技の教師は作家であるべきである、作家でなくなれば実技教師を退くべきだと考えています。しかし教師の生活の問題もあります。それを我が身に当てはめてみても、私は作家であるという自負はありますが、いい作家かどうかといわれると自信がない。
いい作家とはいったいなんだということになりますと、おまえはいいとか悪いなんて学長や学科長がジャッジするのは、それこそごめんこうむりたい。あるいは官展とかで認められ、芸術家としていわゆる社会的権威がある、それがいい作家であるなんてことを言いだすと、中村さんを戦友としてきましたから、2人でどこかにいって噛みつきたくなる。また作品を売ってたいへんな収益を上げているからいい作家、ぜんぜん売れないからだめだという判断をくだしていいものかどうか。そういうことを考えますと、実技教師は作家でなければならないと言うのは簡単ですが、いったいどういう作家でなければいけないか、ここにたいへんな問題があると思います。
しかし、実技の教師が作家でなく理論屋になって、学校でお喋りだけをすることになれば弊害があると思います。理論の先生のほうが歴史的事実をふまえて正確なことをおっしゃる。客観的な事例にもとづいて教育ができるので、これはやっぱり理論の先生におまかせしたい。そうなると、いったい実技の教師は学校の中でなんなんだと。中村先生、これはどのようにお考えですか。
●中村 実技の教師はこうだというより、ぼくはこうですとしか言えませんが……、ぼくの場合は、欠点もいい点もない混ぜて、生きざまを見せることだと思います。作家というのはそもそも、あるところでストリッパーで、裸にならないと勝負をかけられないみたいな職業です。それの延長線上にあるのが、宮島さんのおっしゃった、いろんな師匠から盗るということ。その盗られる側としては、親切であれば脱いで見せるとか生きざまを見せるとか、それがいちばんいい先生であろうと思います。
●柳原 宮島さんは館長でなしに、運命のいたずらで、もし学長になったとしますと、どのような学長が芸大に望ましいと思いますか。教師の勤務評定というようなことが出てくるとすると、実技のA先生は確実に出校され、休校なし。それはいいと評価されるべきでしょうね。しかし何年たってもその教室からきわだった作家のたまごが生まれてこない場合はマイナス評価になるかもしれません。あるいは、その先生は面倒みがよくて、仲人なんかをたくさんやってというような……。(笑)お気軽にでいいですよ、難しく考えずに……。もし、そういう立場になったらどう判断されますか。
●宮島 お気軽にと言われるんですが、これはお答えするのが難しいですね……。(笑)早い話、それでは、どういうことをやるのがいい館長かといわれるとお答えできないというのが正直なところです。学芸員の人が展覧会を企画し、かつ作品を購入することについて環境を整える仕事だと私は思うんです。私自身、学芸員の経験もあるんで引き受けたということでして、勤務評定とかそういうことが私の仕事だとは思ってないですね。だから学長でも勤務評定をやることは仕事ではないんじゃないでしょうか。
●柳原 宮島先生のまえでこの名前をだすのは気がひけますが、工芸にしろ、芸術にしろ、たとえばグロピウスのような運動を起こしてきた人間は、アジテーターの要素もあると思うんですね、教育者でありながら……。
少し前ですが、まだ東ドイツが解放されていないころデッソーにいって、バウハウスの学校を見ました。そこでカンディンスキーやパウル・クレーがどういう教育をしていたか訪ねてみると、運よく当時の学生の生き残りがいました。言葉の問題があるんで充分には理解できなかったんですが、ともかくカンディンスキーの教育は自分の創作のスタイルを押しつける。堂々と押しつける。たとえば、もし教師が丸は黄色である、三角はブルーであると考えていますと、それを学生に押しつけてしまうんです。それ以外のことをやればだめだということになる。
私はこれもひとつの教え方であると思います。だけど、それはカンディンスキーだから通用する。(笑)ほかの変なのにやられたらたまったもんじゃないということがあるわけでしょうが、学生にとっては、その先生が歴史的に将来どのように評価されるかなんてことはわからないから、単に難儀なこっちゃということで過ごすかもしれません。あるいは教師は、たいへんな教育の過ちをそこで犯してしまうこともあるわけです。
だから私は、実技教師と美術学校の将来というのは運命共同体で、われわれがこの問題について突っ込んで真摯にいろいろと話し合わないと、将来的な美術教育のあり方は出てこないと思います。
たとえば大阪芸大の建物をうんと立派にする。著名な建築家に頼んで、世界に類のない立派な建築ができる。これは解決のひとつではありますが、完全な解決ではない。貧乏なかたちよりもベターだと言えても、ベストであるとは言えない。貧乏な大学でも、そこで作家がけっこう生まれてくるような状況があれば、それはなにか原因があるわけで、いったい美術学校の将来はなにによって期待ができるか。
教師がよくても学生に問題がある場合もある。ほかの大学には入れない学生が、美術学校は「お絵描き」だけで入れるからと、入学してくることもないわけじゃない。ものをつくる情熱もなしに、時間つぶしに4年間。そのようなことがあるかもしれません。
ひとつ武蔵野美術大学のおもしろい事例があります。武蔵野美術大学はわりと学生数が少ないんです。一学年
600人くらいじゃないかと思いますが、それに
8,000人くらいの受験生がいるんです。全学科平均して10倍を超えているわけです。どこに魅力があるのか、いろいろきいてみますと、古臭いといいますか、オーソドックスな教育をしているんです。絵描きは絵を描け、工芸家は工芸をしろという感じです。
学長の前田常作さんは、現代の曼陀羅を描いてきたキャリアのある画家なんです。前田さんのコメントによりますと、大学のなかでもメディア化がどんどん進んでゆく、それに対するニーズはあるが、しかし、前田学長の説によると、線をうまく引いたり色彩感覚のいい、いわゆる画家としての資質をもった学生は新しいメディアでも優秀である。だから、つねにオーソドックスな芸術のあり方やセンスのほうを優先してゆくんだという考え方です、ここがおもしろいんですよ。
これは大阪芸大と比べますとやや対照的です。大阪芸大は、メディアを習得すると芸術がうまくなる、そういうものに対応しなかったら、世の中から落ちこぼれてゆくかもしれないというような、そういう危機感を匂わせながらメディア化を急ぐ姿勢をもっています。私は、武蔵野美術学校を見ていまして、なにかそんなに新しくしろとじたばたしなくても、若い人も正統的なものはちゃんと評価をしてゆくのかなという気がしました。
●中村 柳原さんよく内容を知っているね。そんなふうに見えないけどな。
ぼくは外から見てみると、東京芸大なんかあたかも技術訓練所というか……。よくも、いまどきの若者が集まってくるなと思うくらい古典的なものをつくっている。授業料が安いからではないでしょうが、アカデミックなもののみに興味をもっていると思われる人が東京芸大に行ってますね。そういうのに比べると大阪芸大は、いろんな人材が出てきて、狭い面積のなかでよく輩出していると感心していたのですが。
ここに来る前に信楽にいたと話しましたが、旅館で読売新聞の6月24日号を読んだんです。上野千鶴子さんというフェミニズムの社会学者、ぼくなんか恐ろしくて質問できないくらいですけれども、なかなかの論客で、簡単にいえば、男らしさ・女らしさなんてどうだっていい、フェミニズム、女性解放思想という書き方がしてありますが、それを紹介します。
それで思ったのは、おかしな例え方ですが、「工芸とファイン・アート」と「男らしさと女らしさ」というのが同じで、工芸らしさ、ファイン・アートらしさがまったく不要になってきたと実感します。時代というのはボーダーレスになると、アートの世界にもセクションがなくなるとか、男女の間柄のセクションがだんだんあいまいになるとか、とにかくすべての社会状況のなかにその傾向は入り込む。工芸らしさも不要なら、ファイン・アートらしさも、いまの時代に対応しきれなくなる。
なかなか面白いのは、「固有の私」が大切だというんです。たとえば工芸家のなになにとか、陶芸家のなになにでございますというより、なにを材料にしている、どうつくろうと思っている、平面をやろう、立体をやろうじゃなくて、固有のあなたがありますか、つくるものが固有性をもっていますか、21世紀に求められるものですか、というほうが答えを出しやすいんじゃないかと思います。この記事を読んでいて、「らしさ」というなかに工芸家自らが入り込んでゆくことはないと思いました。
この人はフェミニズムの視点から言っているんですが、制度の耐用年数が尽きると言っているんです。ぼくはさっきからパラダイム、工芸の枠組みを壊さないとだめだと言いましたが、この上野さんは耐用年数は過ぎてゆくという言い方をしています。同じことですよ。それは学ぶ人、やろうと思う人、将来はもののつくり手になって一生やってゆこうと思う人、あるいは教育でなにかの責任をもちたいと思う人にとって、いま聞かれたような考え方は大切ではないかと、私は思います。
●宮島 私はさきほど公教育が失敗したんじゃあないかという話をしたんですが、最後にもうひとつ言わせていただきます。とにかく、なんでもいいから続けること。これがいちばん大事ではないかと思います。それを偏執狂的に、自分はこれがいちばん好きだとかいう人を公教育の場合は排除してきたと思うんですね。
たとえば、コレクターなんていいますね。なにかひとつのものを集める。とにかくなんでもいいから数多く集めようとすることがしばしばあります。すべてがそうだとはいいませんが、そういうようなことは、基礎的なものだと思うんです。最終的にそれが高いかどうかということは、各自が判断することであります。私は、とにかく何かひとつのことを続けることが非常に大事なことではないか、そういう気がします。
●柳原 ある意味で伝統主義的なお考え?……。
●宮島 いや、そういう意味ではではなくて、さっき中村先生が言われた上野さんの主張ですが、私自身は、たとえば男らしさ・女らしさというようなものはいいと考えます。それを続けられたらいいと思いますね。なにも、ああいう論客がそう言っているからというのではなくて──それに賛成して意見を変える必要は、ぼくはまったくないと思います。同じように、伝統的なものがいいと思えば、それはそれで続いてゆくし、そうでないということであれば、それでもいいと思う。ですから、続けるということは、なにも伝統的だとか、そういうことではないんです。
●柳原 宮島先生のデザインのお考えについてもご意見を伺いたいんですが。工芸はいちおうおきまして、日本の書道というものを考えて、これが一時非常に絵画性をもってきて、とくに前衛書道というものは絵画とあまりかわらないというようなもので、たいへんに活気をおびたときがあったんです。
現在、それがなくなったとは申しませんが、どうも書道の動向が落ちついてきた。なぜかというと、書のもっている表現性と同時に文字性、意味性というものに大きな意義がある。文字のもっている機能性が大きいので、かえってそれが書の逸脱を防いで、いい環境に戻りつつあるんじゃないかという気がするんです。
そういうことをそばにおいて工芸というものを考えますと、工芸が歴史的にずっともっている「生活とともに発展してきた」というところで、絵画との境界線がなくなって、芸術がひとつになってゆく。それと同時に、ずっと工芸がもっている属性のようなもの、あるいは工芸のもっている遺伝子のようなもの、むしろ宿命的なものかな、そういうものが工芸を安定的なものにしているところがある。そこは排除したらいけないんじゃないかということも、私は最近感じるんです。
そうしますと、いったい工芸の革新というものはなんであったのか。古いものから脱却して新しいものになりたいという強い願望で、結果的に古いものの価値を知ったということは、それはけっして退歩でも不名誉なことでもない。やっぱりひとつの進歩ではないかと思いながら、ちょっと時間の無駄をしたかなという気がしないでもない。
宮島さん、工芸のいちばんの本質は、やっぱり生活の器物であったというような問題。それは工芸にとってマイナス面ですか。あまりプラスに取りますと身も蓋もないことになってしまうんで、そのあたりで宮島さんのご意見をいただきたい。新しい工芸に取り組むとしたら、どういうところがポイントになると思われますか。
●宮島 先ほどお話ししましたように、柵を拡げますと、なにも生活とか用とかに工芸がものすごく近いということではないと、私は思います。おそらく、純粋美術だって、やっぱり生活とか用も非常に関係があるんじゃあないですかね。もともと純粋美術なんて言い出したのは宗教が衰え、キリスト教が生活のすべてを支配することがなくなってからです。宗教美術というものが衰えた結果、(教会の壁画だった)絵画を額縁に入れて、部屋に飾ったり、美術館の壁にかけるようになった。なにも工芸だけが、用とか生活に関係しているということではないと思います。
いまは、工芸がとくに用とか生活の場にあるという考え方が強く、工芸ジャンルのとらえ方は、そういうところから出てきているように思うんです。そういう考えをいっさい取り払って、ものをつくるということの意義を中村先生はおっしゃったんですが、それでいいんじゃないかと思うんですね。自分の好きなもの、表現したいもの──表現するというとちょっとニュアンスは違いますが、自分がなにかを表現したいときに工芸のなかで表現するなら、それでいいでしょうし、純粋にただものをつくるんだということであればそれでいいと思いますが、そういうものを続けるというか──ただ、続けるといっても、それなりの展開とか進歩がないといけないとは思うんですが、それを自分に還元して繰り返す。もちろん人の意見とかそういうものを聞きながら、やはり自分はこうだというものをつくってゆく。そういうことが大事ではないかと思います。
●中村 柳原さんに、そのことに一言あると思うんです。というのは、工芸からはみ出さないということを自分に課してゆく、という意固地なくらいの姿勢で工芸にこだわる、タイトルのつけ方から作品、みんなそうじゃないですか。ぼくなんか、そういうのははみ出して平然というか、無謀というぐらい。だから、柳原さんの生き方をみると、ものを見抜ききったうえで、その節度なりを今や自分に課すことによって作品を深めてゆこうとするタイプのつくり手なんだなと思います。それを尊敬してます。
ぼくはそうじゃなくて、狙うところ、作品の質を維持したいという意味ではまったく同じだと思うんですが、1964年にアメリカのパワーを感じて以来、つくるものにパワーがなかったら、活力がなかったら、そんなものはわざわざつくることはない。やっぱり、活力をもって世の中に挑んでいけるからこそおもしろい生き方だと思う一人なんです。
最近、工芸離れ、いわゆる従来の工芸離れをしたくなった理由というのは、わりあい単純なんです。器と料理とは近いなと──別に料理を器に盛るから近いというほど単純な話ではなくて、料理というのは、食べたら吐くとか、死ぬということはないんです。ところが、アートは見たら死ぬくらいの衝撃を受けるとか、もう二度と見てやるかとかいうくらいの毒も牙もあっていいんです。
ところが、工芸や料理というのは楽しいわね、美しいわね、なんです。それを一生ずっとやってきたら、おれにだって毒も牙もあるのに、なんで美しいわね、楽しいわねだけで表現を終わらないといけないのか。
さっきの山崎正和さんのお話で、あの人は劇作家ですからね、なんであんなことをいうのかなとも思うんですが……。劇作の分野でも、ひとつの枠が出てきたら壊さないとパワーは出ないはずなのに、守る工芸がいいなんてうそぶくのはどういうことなのか。やっぱりあの人も歳をとってきたのかなと。反撃が恐いから、これはオフレコ。つくるものにパワーを出すには、できあがってきた枠を自ら攻撃しないかぎり、活力は薄れてゆくという関係があります。そういう意味で、工芸のほうが自ら、美しいわね、楽しいわねに安住すると、なくてもいい工芸になるのではないかと思います。
●柳原 たしかに私は工芸にこだわっています。ただ、私は個人的に踏み絵のように困ることがあるんです。これは宮島先生にお尋ねしたいんですが、楽茶碗の初代の長次郎の「無一物」というお茶碗がありますね。あれを見まして、一般論として、茶碗の内部の空間の力強さに圧倒されるという意見が多い。だから私も一生懸命そう思いたいのですが、私にはどうしてもそれ程のものには思えない。
日本の工芸のおもしろいところは、あるマインド・コントロールを受けて初めて成立する部分と、そのマインド・コントロールをはずして平たくものを見ようじゃないかという部分、これほど落差の大きい国は私は日本をおいてほかにないと思います。日本の工芸のおもしろさはそういうところにあって、それが工芸教育のなかにもし組み込まれてゆくようであったら、これはもう処置なしといいますか、どうしようもない……。(笑)しかし、それをはずしてしまうと、今度は絵画の理論とかで全部律していかないと、工芸はたしかに学識経験者であればだれでも審査ができる次元のものであるということで終わってしまうわけなんです。絵画をそういう方が審査することは、ほとんどないんです。
中村先生は一所懸命に講演をなさって、強い意志で、「おれはマインド・コントロールにはかからない。おれはオウムじゃないぞ。ぜったい自分は騙されない」と……。(笑)しかし、そう思っている間は案外マインド・コントロールされやすいかもしれません。だから、まったく強い人は(聴衆・学生に向かって)あなたがたかもしれない。
●中村 それは強いよ。(笑)
●柳原 それでも教えてゆくという構図は、なにか私は複雑な気持ちになってくる。そこで、あなた方(学生)の本音をいっぺん聞いてみたい。退屈しても我慢していてくれるような世代にあなた方が成長して、それは先生に対する一種のいたわりですよね。しかし、退屈したらさっさと退場する、そういうあっさりした、冷たい人たちになってゆくのかと思うと、先生に対してどうやら非常にやさしいですね。
1960年代に辛い時代があったんですよ。先生に暴力を加えて、棒をもって追いかけまわす。そういうこともわれわれは軽く経験したんです。そのころからみますと、いまの学生は非常にやさしい。黙って聞く。一種の忍耐というんですか、それがまたどこからそういうものが定着してきたのかというのも不思議な気がするんです。
私が密かに誇りにしているのは、陶芸コースが以前から「教えすぎない」という教育方針を明確にして、それを大学や工芸学科の案内書のなかに文章で明記してきたことです。教えすぎないというか、むしろ教えないというくらいの姿勢で「教えすぎない」ということを言ってきた。しかし、その真意を理解できないままに、「教えてくれないのか」というような欲求不満が、一部の受け身の学生にあったのも事実です。
中村さんね、ここに7千数百人という学生がいるわけです。かつて芸術大学というのは、ほんの少しの学生がプロになって、あとはどうなるのかというと、そこでは回答がないんです。それで、最近は巨大化した大学が生きてゆくために、その7千数百人のうちのプロになるのが1パーセントとしますと、1パーセントはかえってほっておいてもいいんじゃないかと、残りの大多数をどこの港に着けるかという責任を、先生方は負ってくださいと、そういう意見がないわけじゃないんです。じゃあ、いったいどこの港に「大阪芸大丸」という船をつければいいのか、それをお考えくださいという天の声があるわけです。そこで私は、もうお手上げでしてね。中村さんは多摩美術大学でそういう経験はありませんか。
●中村 じっさいには、受け入れている数は、大阪芸大ほどではなく4千弱くらいですから、その半分の責任ですけれども……。でも、あるでしょうね。全員作家になったら、ぼくらは逆に食い上げになるわけですから。作家になる人のほうがはるかに少ない。
突き放した言い方なんですが、作家になるんじゃないから、手心加えて教養を提供しますよ、この程度は覚えてくださいね、ここのところが大事ですよという教育よりは、生々しく競争させる、自分の創造力を引っぱりだす、創造力を他の人と比較させることを20歳代のときに経験してもらうことは、ぼくは授業料に見合ったことだと思うんです。それはやはり、ものをつくり出してゆくときの辛さ、まあ楽しいからやっているから、必ずしも辛さ、苦しさということではないんですが、その真剣度というものに若いうちに触れることは、のんべんだらりの人生よりもはるかにいいなという気がします。
それは、将来主婦になったり、職業を変えたとしても、その姿勢は、土を離れたから、布を離れたから役に立たなくなるというものではなくて、やはり人生を切り開いてゆくうえでのノウハウはまったく同じだという気がします。それをむしろ国文学だ、法学だ、法律だといってやった人よりは、生きてゆくうえでの根幹、なにかをつくりだしてゆく、つくるおもしろさがある、描くおもしろさがあるということを知っているだけでも、そう柳原さんが責任を感じなくたっていいんじゃないですか。(笑)
●柳原 責任は感じてません。(笑)感じてないんですが、そういう声があるんです。
●中村 学校には、わからん人はいっぱいいますよ。(笑)
●柳原 世の中にはわからないことがたくさんありますが、たとえば東京芸術大学、京都市立芸術大学なんていうのは依然として少人数の大学なんです。それで授業料が安い。だから、たくさんの受験生が押しかけていって、試験が高倍率になる。したがって権威が出てくる。じつにくだらん単純な図式ですが、それは世間の常識になっている。
私立大学というのは現実に授業料が高い。百貨店でもレストランでもどこに行っても、高いお金を出すといいものが手に入る。教育においてもそうなのかと、高いお金を出して来てみたら、ただ人数がたくさんいただけのこと。この矛盾をそのままでずっとあたりまえのように、私は過ごしてきたんです。だけど考えてみますと、矛盾すると思います。授業料が高い私立大学ならば、生徒数が非常に少ないか、あるいは個性的な教育が許される、それが私立大学のおもしろみでしょう。
たとえば、京都市立芸術大学はあきらかに私の税金で経営しているんです。(笑)私はあそこのオーナーに近い。(笑)だから、あそこの大学に現在の十倍の学生を受け入れなさいと命じたい。そうすると無試験状態でいけるんです。学校ではたいへんな人数が混み合って、先生は忙しくて、どうやって大勢の学生に良心的な教育をしようかと真剣になる。それが公立学校だと思うんです。私は最近、そういう努力をしないとお金を出してやらないぞと言ってるんです。だけど、いつまでたっても少人数で楽にやっている。
言い分もあるんですよ。いい教育は少人数でないとできない。そういって、国公立の大学は門戸を開かない。私立大学が、尻拭いとはいいませんがそれに近いような状況で、過剰なくらいの学生を採って、少しでもいい教育をと苦労して智慧を出して努力している。私はこの図式を、倒錯した、ひっくり返った感覚でしか受けとめられないんです。
●中村 最後にひとつ、宮島さんは怒る人じゃないし信頼していますから、ひとついじめていいですか。
●柳原 だんだん本音が出てきた。(笑)
●中村 ぼくは先ほど、美術界は置き物、掛け物、しつらいくらいの違いしかないとうそぶいたんですが、宮島さんはクラフトも理解して、ちゃんとその場を提供し、社会に紹介しようとしてきた人ですから、宮島さんをいまいじめるのはお門違いもはなはだしいのですが、国立の美術館の館長でいらっしゃいますから、ひとつお考えを聞きたいのです。
岡倉天心が、ピュア・アートとインダストリアル・アートなどと分けることはない、日本にはちゃんとした伝統があるんだと
100年も前に言った。ぼくも柳原さんもいまだに工芸にこだわっている。だけど、美術界の状況からいいますと、海外に出てゆく日本のアートとなると、工芸の分野では伝統工芸のみ。つまり、ちょんまげを結った時代の美意識。現代の工芸はほかの現代美術からいうと、そんなに見劣りしますか。出ていっている現代美術のレベルと、土だ、木だ、布だをやっている、いい人のレベルとの差は、美術館の社会からみるとそんなに差があるように見えますか。
というのはなぜかというと、ヨーロッパに出てゆくときにはなぜ伝統工芸のみもっていって、現代のクラフトとか工芸とかには、そう捨てたもんでもないと思う人が数人いるけれども、そういうものはほとんど出さない。わずかに出てゆくのはコンテンポラリーアート様式。
これは質問しながらすごく恐い言葉だと懸念します。伝統工芸のおじさんもまったく同じことを、自信をもって「工芸は日本国の代表の美術でありながら世界に紹介されていません」と言えるからです。ぼくがそれを言うのは、もうちょっと深くものをみているつもりで、なおかつ宮島さんという館長職の人に聞きたいんです。日本の工芸とかそれに関わる分野の状況は、世界のなかへもって出ようとすると見劣りするのか。あるいは、世界が興味をもつ対象でないのか。
●宮島 ご質問が非常に具体的な文化の輸出に関してで、誰がどういうかたちでやっているかという現実的な問題に触れてきます。文化庁がやるときは伝統産業しかもっていかないというシステムになっているかどうかは、じつのところあまりよく知りません。しかし私自身は、もし海外にもってゆくなら、伝統工芸よりは現代の工芸のほうを出したいと思います。
●中村 なかなか頼もしい、ありがたい、貴重な、大切にせんならん存在が館長さんになってくれたんですが……。
●宮島 あんまり力はありませんよ。(笑)
●中村 世の中に向かって発言してくださるだけでも重要だと思うんです。必ずしも海外で「いいんだぞ」と言ってもらいたいわけではなくて、世界に刺激の場を持ち込む、そういうことさえもなされていない。工芸はボーダーレスになるといいながら、そのじつ世界に出てゆくこともあまりなく、西洋美術の受け入れ一辺倒というのは、 100年前の岡倉天心が言った時代とそっくりが 100年続いているように、ぼくにはみえるんです。
●宮島 それはおっしゃるとおりだと思います。ただ、おそらく伝統工芸をもってゆくのは、日本独特の、外国にはないものを紹介しますという意味でもっていっているのであって、どちらかと言えば、これは民族芸術とか、民族文化というか、そのレベルだと思うんです。美術ということで輸出するということではないと思うんです。だから、あまりそういうことを……、「それは困る」ということはもちろん言わないといけないんですが、そのように解釈すれば、ほとんど腹はたたないんじゃないですか。
●中村 いやいや、腹たつ。(笑)というのは、たとえば今後、中国なんかが力をつけていきますね。中国は「書画一致」という発想でしょう。それに対して、西洋美術のパラダイムはそうではないわけです。近代主義というもので地球はくくられていますから、近代主義に付随するアート観で成り立つんだと言われたらそれまでなんです。でも、地球上の人口比率からいったって、アジアは三分の一よりもっといます。
こう言いながら、危険な言葉だと重々わかりながら言うんです。これはひとつ間違えると国粋主義者の発言になるんです。だけど、それでも今後、教育としてあえて工芸に刺激を加えてやってゆこうという、その先に見えるものは、自分たちの主張を世界に出してゆきたいということです。だから、そこのところをおさえないと、とうぜんおかしい。
100年前も、いまも、かたちからいうとほとんど変わっていない。
いま、伝統工芸は民族的なとおっしゃいましたが、
100年前の博覧会の記事を読むと、フランスで博覧会があったときに受け入れ側はとまどった。それはどういうことかというと、彫刻だ、絵画だ、なになにだというなかに、屏風が出てきたり、刀の柄が出てきたり。それで受け入れる側はとまどったわけです。
●宮島 工芸の扱いにとまどった。
●中村 そう。それで、浅井忠なんかは西洋美術を紹介した人でありながら、最終的には工芸科の主任になったくらいに衝撃は大きかったわけでしょう。その技術が 100年後のいまも大同小異のままでいる事実はものすごい変則的だなと……。
●宮島 私も同じ感じをもっています。西洋文化を受け入れる側のスタンスは、いまでも続いていると思うんです。その間なにもやってこなかったというのはちょっと言い過ぎだと思いますが、やり方が非常に悪かったというか、うまくなかったと思うんです。
たとえばロンドンとかパリとかベルリンとか、ああいうところの現代美術館に行ったらわかると思うんですが、やはり自国の作品をメインにして紹介している。それを日本の場合は、遅まきながら現在やっているんですが、その歴史が非常に浅いものですから、外国の人から見るとどうしても、とくに油絵なんかは、これは西洋の亜流ではないかというようにみる人が多い。
だけど、それはこれまで 100年あるいは
150年間の戦略のまずさがあって、これからは取り戻さないといけないけれども、それにはやはり
150年はかかります。
●中村 さらにですか。えらい気の長い。
●宮島 そう。(笑)だから、あまり気短かにそんなことを言ってもしようがないと思うんですよ。
●柳原 でも 150年と言われたら……。(笑)
●宮島 そうじゃなくて、それなりの覚悟をしてやればいいと思うんです。
●中村 宮島さんは歴史を知っているから、やっぱりそれくらいに見えるんですか。
●宮島 見える。価値観というのはそう簡単には変わらないと思います。
●中村 そうかなあ。すごい話やな。でも、かかるかもしれんね。なるほどね。
●宮島 ただ、われわれは、新しいものがなにかいいというように思っている。私自身もそう思います。だけど、これが 100年あるいは 150年以上前は必ずしもそうじゃなかったと思うんです。そういう価値観というか、共有感覚みたいなものを人間はそう簡単に変えられないと思うんです。それでもって、それなりの成果をあげているわけでしょう。
●中村 じゃあ、ヨーロッパが経済の分野から発展させてEUなんてやったじゃないですか。ASEANも中国も経済ばっかりじゃなくて、文化をそのように固まってやるべきではないですか。
●宮島 だけど、それはあんまり言うと、さっきのナショナリズムになる。それから、戦前の大東亜共栄圏に絡んでくる。だから、さっきは、上野千鶴子の話のときに言わなかったんですが、ああいうジェンダーの主張にすぐ賛成して、すべてそれだという、あれはれっきとたファシズムです。
だから、それはやっぱり現在の──それじゃあ、おまえはなにを考えているんだといわれるかもわからないけれども、相対的にニュートラルな立場を貫くという、そういう立場にいまも置かれている。少なくとも私はそういう立場をとりたいんです。そういう展開をする、そういうシフトからみると
100年とか 150年とか出てくるわけで……。
●柳原 中村さんは、言葉づかいをたいへんに心配されて、私も同感のところがあって、あまりものを言うと、年齢はもちろん関係があります。(笑)だけど、ナショナリズムというものがどういうものか。老醜のようなもので、年がやってくるとかならずそういったものが出てくるのかどうか、自分でももて余したようなところがあるんです。
そういうことをのけて、誤解をされないように弁解しますが、日本で私たちが大事にしているものが、外国では評価されない。外国で評価された日本のものは、われわれは再評価を簡単にする。そういう習性は、私たちの得意中の得意なんです。
●中村 150年間も。
●柳原 そう、 150年。
●中村 嫌になるなあ……。(笑)
本稿は、『PORTFOLIO 采/綴 大阪芸術大学大学院 工芸 1998-1999』に掲載された、工芸教育研究会主催「鼎談・大学と工芸」の記録である。平成10年6月26日に大阪芸術大学芸術情報センターAVホールにて開催したもので、百数十名の学生と数十名の教員らが聴講した。当日、工芸の教育問題に関して多方面にわたる問題提起に、満場が熱気をおびる盛会ぶりだった。鼎談が佳境に入っていたものの、時間超過のため、この後別室での懇談会へ席を変えて議論が続けられた。