『PORTFOLIO 采/綴 AYA/TOJI 大阪芸術大学 染織 2000-2001』
 

大型のB4判、総112頁。カラー図版310点のほか、モノクロ図版、技法解説、エッセイ、研究報告など掲載。一部英訳文掲載。巻末には工芸教育研究会主催のセッション「大学と工芸ー創作現場における『発見』」が掲載されている。2001年 3月22日、大阪芸術大学工芸学科染織研究室内・特色ある教育研究の推進「芸術の発表・表現とその社会的実践」担当部局発行。編集委員: 福本繁樹・小野山和代・加賀城健・冨田加那・山本将史ほか、翻訳: Meredith McKinney、アートディレクション:石浜寿根

表紙掲載作品  上段より、濱久仁子「ウェブ・ウェブ・ウッラ 001」(部分)、加藤奈緒「よりみち 」(部分)

『PORTFOLIO 采/綴 ATA/TOJI 大阪芸術大学 染織 2000-2001』は非売品ですが、限定部数を工芸教育に関心ある方にお届けする用意をしています。発送諸経費として1000円分の郵便切手同封の上、専門分野名と希望理由、郵送先を明記して「585-8555 大阪府南河内郡河南町東山 大阪芸術大学染織研究室内『PORTFOLIO 采/綴』出版部局」宛、郵便にてお申込みいただければ、出版部局より発送いたします


目次

序論

風合い―日本人の触覚性 福本繁樹

6

大学院芸術制作研究科 制作発表

17

4回生

制作発表

24

3回生

制作発表

44

2回生

制作発表
フエルト
綴織
型染:一枚型による連作(糊防染)
型染:送り型(捺染)
ろう染:糸目技法2種によるドローイング
ろう染:孔版によるオプティカル・イメージの連作
染織実習1:ジャワ更紗

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1回生

CONSTRUCTED TEXTILES:布・繊維の造形
CONSTRUCTED TEXTILES:ステッチ
CONSTRUCTED TEXTILES:襞
CONSTRUCTED TEXTILES:アサンブラージュ
CONSTRUCTED TEXTILES:インターレーシング

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大学院芸術文化研究科 研究報告

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ESSAY

自分自身に大きな影響を与えた物・事
染織の制作でワクワクすること、イライラしたこと
私の表現と触覚性
私の好きな衣服、飾り、コレクション
やっぱり自分は日本人だなぁと思う時
芸術家になる条件
もしこの世の終わりが明日くるのなら

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特集・セッション―大学と工芸「創作の現場における『発見』」
  パネリスト: 田嶋悦子、熊井恭子、橋本真之、柳原睦夫 

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学生一覧 

110

編集後記

112




  

4回生作品掲載頁例 28頁上段

加藤奈緒 KATO Nao
よりみち(部分) ラフィア/綴織

4回生作品掲載頁例 34頁上段

高橋亜希 TAKAHASI Aki
波音(部分) 麻糸/絣織

4回生作品掲載頁例 43頁上段
 

山本かおり YAMAMOTO Kaori
海潮音。(部分) 麻布/ろう染






 2回生 62-63頁掲載扉
 



 64-65頁掲載2回生作品例 
伊藤正紀 ITO Maki
清水 環 SHIMIZU Tamaki
田中里奈 TANAKA Rina
平野久美子 HIRANO Kumiko
藤川恵子 FUJIKAWA Keiko
松本有加 MATSUMOTO Yuka
丸岡万里子 MARUOKA Mariko
安江紀美 YASUE Kimi

2回生 フエルト
羊毛の繊維は、熱、圧力、アルカリを加えるとお互いが絡み合い縮絨する。布作りのもっとも始原的手法の一つで、遊牧民が防寒のため、床や靴の中などに敷き詰めていたものが布状になり、これがフエルトの起源とされている。わが国には正倉院裂の中に、華やかなフエルトの敷物「花氈」(かせん)が数十枚伝存している。フエルトはかたちづくりが 自由で、塑像のように立体的な表現が自由にできる。今回、自分がかぶるためのフエルト帽子にとりくんだ。(小野山和代)






 68頁掲載2回生作品例 

伊藤正紀 ITO Maki
金魚 植物染料、顔料、和紙/糊防染
伊藤正紀 ITO Maki
金魚 直接染料、綿布/糊防染
伊藤正紀 ITO Maki
金魚 藍、麻布/糊防染

2回生 型染:一枚型による連作(糊防染)
型紙や版などを用いると、複数生産や、くり返し文様を染めることができる。型紙に文様を切り抜いて、そこに防染糊を置いて文様を染め抜く方法は、江戸時代には武士の裃に用いられた「小紋」や庶民の浴衣などに用いられた「中型」などに発達した。 今回は、絵画的表現に同じ一枚型を使いながらも、繊維素材や染料による異なった染色効果を試みるため、和紙や布と、植物染料、藍、直接性染料などを用いた連作にとりくんだ。(竹垣恵子)






72頁掲載2回生作品例 

富田良子 TOMITA Ryoko
ばら 綿布/ろう染(白上り)
松濱澄実子 MATSUHAMA Sumiko
赤いカマキリ 綿布/ろう染(白上り)
紙谷佳江 KAMITANI Kae
ヒマラヤの青いケシ 綿布/ろう染(白上り)

田方麻衣子 TAGATA Maiko
コスモス 綿布/ろう染(白上り)
望月節子 MOCHIZUKI Setsuko
花華 綿布/ろう染(白上り)
松本有加 MATSUMOTO Yuka
仲YOSHI 綿布/ろう染(白上り)

2回生 ろう染:糸目技法2種によるドローイング
筆先のやわらかな毛筆と、和紙に滲ませる墨を用いて書画を描いてきた東洋では、筆圧の触覚性と素材の表情を生かした線描に、とりわけ厳しい審美眼が培われてきた。ろう染ならではの線描としては、濃色地にチャンチンで白いろう糸目を描いた「白上り」によって、「粋」に通じる瀟洒(しょうしゃ)な美が表現できる。また逆に、伏せろうを鉄筆などで掻き削り、そこに染料を摺りこむエッチング技法では、淡色に黒線による軽妙なドローイングも表現できる。(福本繁樹)






78頁掲載1回生作品例 

飯田真理子 IIDA Mariko 孤独な指
天竺木綿、綿シーチング、ポリエステル綿
荻野雅子 OGINO Masako 上へ上へ
綿強撚糸、ジュート
金井佑希子 KANAI Yukiko 波とその空間
ジュート、レーヨン糸、針金
金川幸子 KANAGAWA Sachiko 宇宙の中身
紙紐、ポリエステル綿

桑野真梨子 KUWANO Mariko 化石虫
綿帆布、針金
谷屋 綾 TANIYA Aya 育ついのち
ブロード、ポリエステル綿
濱田佳代 HAMADA Kayo ギャシャどん
綿ベルト、針金
中本久美 NAKAMOTO Kumi 上へのびろー!!
紙紐、ビニールテープ、シュロ縄、ジュート、サイザル麻、レーヨン紐、ナイロン紐、綿ロープ、針金

 米谷明希子 MAITANI Akiko 壁虫
ジュート
 森山麻衣 MORIYAMA Mai 引力
ジュート、ラミー

安川 瞳 YASUKAWA Hitomi 結集
ブロード、綿シーチング、ジュート、ポリエステル綿
藁科美穂 WARASHINA Miho 増加する細胞
和紙、造花用針金

1回生 CONSTRUCTED TEXTILES:布・繊維の造形
現代テキスタイル・アートの動向は、スイスの国際タピスリー・ビエンナーレや、ポーランドの国際タピスリー・トリエンナーレによってリードされ、作品内容の傾向は現代美術の動向に合わせ、立体へ、スペースへと多様な展開をみせるようになった。このような繊維造形の興隆に呼応するように、繊維素材を用いた小作品の展覧会が、その手軽さもあり世界各地で企画開催され、大作とはひと味違った造形分野を確立している。小作品には作者の凝縮された感性が表現され、作者それぞれの小宇宙が、小作品ならではの世界に鮮明に反映される。(小野山和代)



 


 『PORTFOLIO 采/綴 大阪芸術大学 染織 2000-2001』巻頭論文

―工芸は全感覚の美―
「風合いー日本人の触覚性」 福本繁樹

 精緻な工芸技術、「風合い」にうるさい和装、「触れ」の美が問われる食器などの例から、日本人はとくに触覚性に優れるといわれる。確かにそうだと思うのだが、はたして実際そうなのか具体的に証明することは困難である。そこで日本人の触覚性について、それをさぐるキーワードをあげて考察してみたい。ここで取り上げるキーワードとは「ペンキ嫌い」「取っ手」「オノマトペ」「風合い」である。日本人の触覚性をさぐると、「工芸は全感覚の美」だということが明らかとなり、ひいては工芸の意味ばかりでなく、21世紀美術のあり方をさぐる手だてを得ることもできるのではないかと思われる。

ペンキ嫌い

 日本人の「ペンキ嫌い」はしばしば指摘され有名である。たとえば白木の風呂、桶(おけ)、箸(はし)、箪笥(たんす)、神棚など、素木(しらき)の木目、香り、肌触りなど、全感覚で木地素材を愛でる習性は「白木信仰」といわれるくらいだ。京都の宮型霊柩車には白木造り、黒檀、金と漆のものがあるが、もっとも格式が高く、したがって貸料も高いのが加飾のない簡素な白木のものである。
 あるフランス貴族は、日本人の嫌いなものの一つは「奇妙なことだが、ペンキである」と述べ、ヴィクトリア女王がミカドに贈った舟の運命を紹介している。「一番上等なペンキで飾り、船内のすべての重ね継ぎの上に金箔を被せ」た可愛いヨットを迎えた日本人は「何もかも差し置いて、さっそく龍骨(キール)から船体内外側の被覆にいたるまで舟を必死で引っ掻き削った。これが彼らの目には舟を千倍も美しくし、よりいっそう好みにかなったものにすることであった」(L・ド・ボーボワール『ジャポン1867年』)。
 「ペンキ嫌い」は「皮膜嫌い」といいかえられるだろう。日本の伝統的な建築や工芸における表面処理方法に、日本人の皮膜嫌いが読める。日本では、絵画的な表現や彩色など、特別に顔料などの皮膜を必要とするばあい以外は、素材を隠蔽する皮膜を避けることが顕著である。
 建築はどの部分もほとんど塗装されることがない。木製品はせいぜい拭漆(ふきうるし)が施されるくらいで、木目の美しさや素材感が大切にされる。竹、繊維、紙、藁(わら)などの「民芸」も同様である。錆止めとして皮膜が要求される金属工芸品でさえ、透明感のある漆を施したり、素材そのものから発色する酸化膜によって表面処理する。素材と無縁な皮膜で隠蔽することが避けられるのだ。エコロジーの高まりとともに、欧米のインテリアで最近もてはやされはじめた「ロー・マテリアル」や「スーパー・ナチュラル」など、加飾をさけて天然の素材感を生かそうとする趣向は、むしろ日本の伝統的な嗜好である。
 日本人は、美しいものを上代より「きよし」「きよらか」とよんできた。「きよし」「きよらか」とは、表面に何も付着していないという意味だ。よごればかりでなく、表面にペイントもデコレーションも何もないことが、すなわち美しいということで、考えてみればそれは奇妙な美的価値観かもしれない。ペイントを用いれば視覚効果を優先した加飾ができる。しかしペイントは素地の表面を隠蔽する皮膜を形成し、イリュージョンによって素地のテクチャー感覚を視覚的に偽る。また表面の皮膜は、素地の触感や匂いや味などを封じ込める絶縁体ともなって、享受者が全感覚で素地を愛でることをさまたげる。日本人はそれを嫌うのではないか。
 日本人の皮膜嫌いを力説すると、反論があるかもしれない。たとえば、日本が世界に誇る「蒔絵(まきえ)」は皮膜の仕事であり、皮膜が嫌いだったら高度な蒔絵の技術を日本に発達させるわけがないと。しかし人間のなせる業は単純ではない。逆説的だが、皮膜そのものの工芸である漆工芸のあり方を検証してみると、むしろ日本人特有の皮膜嫌いの性向がみえてくる。
 京都の自宅近くの縁日で、豪華な蒔絵の椀が無造作に山積みされ、たたき売りされていたことがあった。よくみれば古い椀にはどこかに傷がある。漆はペンキのように手軽に塗りなおされることも少なく、ほんの一部でも漆が剥がれた椀は二束三文となる。「皮膜は剥がれてはいけない、剥がれたら皮膜が皮膜であることを露呈する」というような皮膜剥離/皮膜露呈恐怖症は、日本人の皮膜に対するマイナスの価値観や、皮膜に対する否定的なプレッシャーを示す。そのような、うわべ、表面、外面など、皮膜に対する否定的価値観が、この日本に漆工芸の文化を発達させたのではないか。
 日本の漆工芸は、きわめて複雑な皮膜づくりの工程をみせる。とりわけ、漆の下地、下塗り、中塗りにおける研磨の工程は念入りである。薄い層である皮膜に対して研磨作業をこれだけくりかえす例がほかにあるだろうか。
 ある漆工芸家の説明によると、研磨の効果は、かたちを整えること、凹凸をなおすこと、表面に細かい傷をつけて次の漆が染み込むようにして、上塗りの接着をよくすることだという。蝋色(ろいろ)仕上げの研磨は光沢を出すためで、漆ほど念入りな研磨作業の仕上げも珍しいという。研磨作業は、念入りなスキンシップの工程でもある。漆の下地の必要性は、木地の変形に対応するためにあるという。長い年月の間に痩せたり歪んだりする木地のばあい、それを防ぐためには狂いの少ない材を選ぶこと、材を充分に枯らすこと、そして木地をできるだけ薄くして、逆に漆の下地を厚くすることである。とくに蓋物の棗(なつめ)などは身(器)と蓋がぴったり合わねばならず、木地の狂いが嫌われるので、その対策として、極限まで薄くした木地に厚い漆の層の下地をほどこして、木地の痩せや歪みもろとも封じ込めてしまおうとする。
 ここまでくれば、漆は皮膜ばかりでなく支持体をも兼ねることとなり、漆を皮膜と解釈しては理解できないものがある。皮膜である漆が、皮膜にとどまらず、内実ともならんとする指向がうかがえる。漆の層には、ミクロの厚みのなかで内実を形成しようとする構造がみられる。表層を研いで下層の色が部分的に現れる効果をよろこぶ「研ぎ出し技法」は、下層の皮膜を内実と偽るみせ方だとみることもできる。念入りな研磨をくりかえして得られる漆の光沢は内実を意識したものである。なぜなら、色彩が視覚的、表面的なのに対して、艶や輝きは、もともと本体や素地の質を問うものもので、内実に強いこだわりを示すからである。漆はペンキ(ラッカー)の一種なのに、漆の仕事をさして「ペンキのようだ」といえば最悪の評価となり、その作家は屈辱に憮然とする。皮膜が皮膜であることを否定しようとするパラドックスを漆工芸にみる。皮膜嫌いに皮膜をつくらせると、かくも“ひねくれた”ものとなる。
 日本の工芸にみられる作品の素材感を重んじる「皮膜嫌い」の感覚は、一方で染めの文化を発達させた感覚と根がおなじだろう。皮膜嫌いが皮膜のない染めを好む、日本人の「ペンキ嫌い」は、「染め好き」の裏返しであろうと思う。

取っ手

 1908年、亀の子束子(たわし)が東京の西尾正左衛門によって実用新案登録された。これはシュロの葉の繊維などを二本の針金でよじ合わせ、両端をつないで楕円形にしたもので,その簡素な構造は現在にいたるまで実用に応えている。この亀の子束子なるものをはじめてみた欧米人は、「どこをもって使うのか、取っ手がないではないか」とけげんな顔をするだろう。欧米人は食事中、取っ手がない器を手にもちあげることをしないので、取っ手がない器具を手にするのをためらうようだ。束子は英語で「scrubbing brush(こすって磨くブラシ)」で、ブラシの一種である。しかし植物繊維が四方八方についたこのブラシは、ブラシに取っ手が常識とされる欧米感覚では、きわめてユニークなものだ。この亀の子束子こそ日本人感覚ならではの発明だと思われる。もっとも今日では柄つき束子なる和魂洋才(?)の代物が売り出されて、複雑ではある。
 束子と、毛筆や絵筆をいっしょにして「ブラシ」とする感覚は日本人にはないが、そのブラシには用途別に、洋服ブラシ、帽子ブラシ、靴ブラシ、靴墨ブラシ、ヘアーブラシ、マニキュア用ブラシ、歯ブラシなどがある 。かつて日本にはこんなに豊富な種類のブラシはなかった。
 水で洗い清めるのを好む日本人に対して、欧米人は多種多様に発達させたブラシで汚れをはらったり、磨いたりする。「洗う」は、内部に染みる汚れを、「はらう・磨く」は、表面に付着する汚れを重視する。ブラシ文化が示す両者の清潔感の違いは、内実と表層へのこだわりの違いをも同時に示唆する。
 清潔感に加えて興味深いのは、取っ手文化の相違である。積極的に取っ手をデザインする欧米に比較して、日本は消極的である。日本の器物の取っ手は、でき得るなら無いほうがよいとされるがごとく、必要最小限のものに抑えられる。欧米の取っ手は手になじむように湾曲していたりふくらんだりしているが、日本では手の形にそわせようとする配慮がみえず、直線的な「柄」やシンプルな「手」である。
 凹みによる襖の引き手は、欧米では珍しいだろう。その引き手ですら、襖をほんの少し引くだけに利用して、襖の隙間に手の先を差し入れて開閉するのが作法である。欧米の取っ手は出っぱったものであり、西洋建築のなかを和服で大手を振って歩くと、たちまち袂をノブ(瘤)に引っかけて着物を破いてしまう。ノブなどというものは日本文化には存在しなかった。
 ロンドンの地下鉄には奇妙な取っ手がぶらさがっている。吊り紐にらせん状のバネが巻かれ、先に玉がついたもので、吊り革でも吊り輪でもなく、さしずめ「吊り玉」とでもよべはいいのだろうか。それを英語でどういうのか聞くと、ロンドン人がハタと考え込む。ストラップとバネとノブをドッキングさせた金属製の取っ手を、なおストラップ(吊り革)とよべるのか疑問、ハンドルでは漠然としすぎで、英語の確実な呼称がないという。何十年も毎日つかまっているのに、確かな呼称を知らないのはどうしたことかと追求すると、ロンドンの知識人が困った顔をするから滑稽だ。欧米人は、呼称不明の複雑な取っ手までどんどん開発する。
 英語の取っ手には一般的なハンドル(handle)をはじめ、種類に応じた呼称がある。たとえばドア(knob) 、ゴルフクラブや連動機械(grip, gripe)、刀(hilt)、ナイフや包丁(haft)、手桶(bail)、舵輪(spoke)、槍(shaft)、オール(grasp)、斧(helve)、ほうき(stick)、鋤や釣りざお(stock)などの取っ手の呼称が異なる。その他 catch, clutch, pull などの動詞や、ear, staff, stem などの名詞にも取っ手の意味がある。また日本語にないクランク(crank 曲がった柄) もある。
 それにひきかえ日本語の呼称は少ない。取っ手・引き手・つか(柄)・にぎり・つまみなどは、それぞれ取る・引く・つかむ・握る・つまむという動詞によるもので、その言葉は動詞と「手」の合成か、動詞の名詞化である。取っ手の名は「え」と「て」しかみあたらず、それすら「柄(枝から転じたものか)」と「手」を借用したものだから、取っ手に固有の一次名詞がない。
 取っ手のデザインが親切であれば、それだけ手の働きを補助することができる。しかし触感を発達させて、手の機能を洗練させるためには、取っ手や道具によるよけいな補助が、逆にじゃまになることがある。学校給食に、スプーンの先がフォークになっている“万能”食器が普及した結果、児童の手の働きや食事マナーが退化したと非難されたことがあった。スパゲティをフォークとスプーンで食べたり、スープを音をたてずに飲むことは、日本人にとってはやっかいなことだが、二本の細い棒切れを片手で使って魚の小骨をせせることは、西欧人には至難の業だろう。日本の取っ手文化の貧しさは、日本人の精妙な触覚性を示すものである。
 道具はその機巧こそ重要なのか、それとも使い様なのか。取っ手によって少しでも手の働きを補助すべきなのか、それともシンプルな道具によって精妙な触覚性による手の働きを発揮させるべきか。対照的なコンセプトをみると、取っ手文化の豊かさは、手の働きに対する期待度に反比例するものと思われる。少しでも手の働きを補助しようとする取っ手デザインの姿勢は、道具・機械の威力を借りる方向へと発展する。しかし、習練による手業の威力も捨てたものではない。たとえば、近年のハイテクの世界で、機械の精度をはるかに上回る「超職人」の手業の活躍が話題となっている。取っ手文化の豊かな国が機械文明を発達させ、貧しい国が手仕事・工芸を発達させた。文化発達の指向性の違いを取っ手文化が明示している。

オノマトペ

 芸術における「触覚」の重要性は、従来の西欧美学において不当に斥けられてきた。また触覚の美的性質に関しては、いまだ十分な論議がつくされてきたとは思えない。このことは、純粋美術に比較して工芸に不当に低い地位が与えられたこととパラレルに関係しているようだ。このようななかで木村重信氏は、これまでの「触覚論」を検証するとともに、独自の論考「触覚の表現的性格」をまとめている。(『木村重信著作集 第二巻 はじめにイメージありき』所収)
 われわれは視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚というような種々の感覚を有しているが、これらの感覚については古くから受け継がれている考え方がある。それは視覚・聴覚を高級感覚とし、触覚・味覚・嗅覚を低級感覚とする考えである。そうして美意識に役立つものを、高級感覚である視覚と聴覚に限り、美は高級感覚にのみ属し、低級感覚には属さないものとする。たとえばホーム(H. Home)は、美を視覚と聴覚の二感覚に属せしめ、他の感覚によって受容された印象は快いかも知れないが、美しくないという。そして「視・聴」の二覚は「触・味・嗅」の三覚よりもすぐれているとし、後三者は前二者に比して、その性質において単に肉体的であり,精神的要素を欠くという。またシラー(J. C. F. vom Schiller)やヘーゲル(G. W. F. Hegel)も触覚に美的な契機を認めなかった。触覚はそれ自身否表現的である。なぜなら触覚表象を触覚表象として実現することは不可能であり、もしそうしようとするためには、対象に触れることを再び繰りかえすよりほかないからだと、フィドラー(K. Fiedler)もいう。
 これに対して、造形芸術において不当に軽蔑されている触覚に注目したヘルダー(J. G. Herder)は、「触覚が色彩について何も知らないように、視覚は形態について何も知らない」「一切の形態ないし形式の美は、視覚の概念ではなく、触覚の概念である」などと、高級・低級感覚説に反対を唱えている。
 しかし木村重信氏は、手による触覚の重要さが説かれる陶磁や、薄い衣服が身体にぴったり着いていることが、その美のひとつの要素であるといわれるギリシャ彫刻の例などを説明するとともに、触覚の表現的性格を解きあかす。氏は、「芸術作品は決して作者ひとりの作るものではない」「見るということ、そのことが美の、ひいては芸術作品の成立に大きな意義を有する」「(作品の)物としての存在は見ること以前の存在であるが、芸術的存在は見ることにおける存在である」と、観照の働きに注目する。そして、これまでの触覚論は、創造と観照との原理的同一性が否定されたが故に是認できないと言う。従来の主知主義的な美学において、感覚の知的な意味のみが重視され、感覚がパトス的な(恒常的ではないが、一瞬のうちに何かを生み出す契機となる)、そして現実的な意味を含むことが軽視されたと反駁する。(以上前掲書参照)
 先学の「触覚論」をここで詳しく検証する用意はないが、少なくとも言えることは、われわれは理性を絶対視する形式主義的な美学から脱するところからはじめねばならないということであろう。たとえば、「視覚芸術(visual art)」という言葉がある。この言葉によって、造形の視覚的価値のみが問題視され、触覚などの働きが死角に追いやられ、軽視されることがある。しかし現実世界における人間の知覚認識作用は、常に全感覚が同時に作用するので、視覚だけの表象も、視覚だけの感知(観照)も実際上不可能である。ならば、「視覚芸術」とは現実的には存在しえない、フィクションでしかないものだということができる。それに反して「工芸」はもともと現実世界をふまえたものである。
 現実世界での「触覚の表現的性格」をさぐるために、「日本人の触覚性」の考察に話をもどそう。フィドラーが、触覚表象を触覚表象として実現することは不可能だというように、触った感じを誰かに伝えるには、その人に同じものを触ってもらうか、言葉によって説明せねばならない。そこで「触覚 : テクスチュア・風合い」の表現に威力を発揮するのが、日本語に顕著な擬音語・擬態語である。
 触覚表象における擬態語の威力について興味深い実験結果が以下のように紹介されている。
「以前、ある物性研究所でおもしろい実験が行われた。たとえばガム、粘土、プラスチック、餅、ゼリー、ナメクジ、パテ、蝋(ろう)、膠(にかわ)、水飴……など、粘性のある物質をそろえ、それぞれにA、B、C、D……と符丁をつけ、暗箱に入れて各実験者に指で触らせる。つぎにネチネチ、クチャクチャ、ネトネト、ベタベタ、ペタッ、ピチャピチャ等の擬声語を列挙した紙に順次該当する感覚を選んで丸をつけさせる。大半の研究者は、漠然とした傾向が現れるとしても、全体としては無法則で、拡散した結果を予測していたらしい。つまり個人差の過大評価だ。ところが意外にも、指先のアナログ感覚と擬声化されたデジタル表示は、ほぼ百パーセントに近い一致をみたのである。さらに驚くべきことは、こうした精巧な擬声語をあやつれるのが、日本人だけだということだ。」(安倍公房「ネチネチ、クチャクチャ、ベタベタ」『芸術新潮』 500号)
 一方、「スイスの言語学者アンリ・フレ(H. Frei)は、日本語のオノマトペを日本語を知らぬ学生に聞かせてそれをどのようにとるかという実験をし、その結果を発表している。その多くは擬声語で、そのうちいくつかは当たっているが、擬態語では一つも当たっていないのである」 (泉邦寿「擬声語・擬態語の特質」) という。
 感覚や情趣をこまやかにとらえる日本人は、即物的・直観的に自然にしたがい、自然をとり入れる。その方法は、ものごとを「なぞらえる(準・准・擬)、うつす (写・抄・映・移・鈔・搬・摸・遷・謄) 、のっとる(式・法・則・模)、かたどる(肖・象・像・貌)、まねる(真似る)、まねぶ(学ぶ、真似るに同源)、ならう(狃・効・倣・習・傚・閑・肄)」などといった行為であろう。
 擬声語や擬音語のことをオノマトペ(onomatopee [仏] 、onomatopoeia [英])という。「オノマトペを絵画にたとえてみれば、擬声語が具象画であるのに対し、擬態語は抽象画ということになろう」という指摘があるように、音声を写した擬声語・擬音語と、状態や有り様を描写的・象徴的に表現した擬態語は性質が異なり、区別される。アンリ・フレの実験でも明らかにされたように、擬声語・擬音語よりも、擬態語のほうが外国人に理解が困難なのは、擬態語の象徴的表現のためであろう。擬態語を「Mimesis」としてオノマトペと区別する研究書もあるが、オノマトペは広義には擬態語も含めるとする書物も多い。擬音語・擬態語は、朝鮮語や中国語など東アジアの諸言語に多く、とくに擬態語は、インド・ヨーロッパ語族でもヒンディー語には多いが、フランス語にはひとつもないといわれるなど、ヨーロッパ語にはきわめて少ないので、オノマトペが擬態語をも含むかどうかの根拠があいまいとなり、この混乱の原因となっているようだ。
 オノマトペの表現を五感に分けて考察すると、興味深い発見がある。擬態語は「視覚・触覚など聴覚以外の感覚印象を言語音に写し表す語」(『広辞苑』)とされるが、味覚・嗅覚の擬態語は少ない。そもそも擬態語の「態」は「すがた・身がまえ」のことで、味や匂いを意味に含むものではなく、味覚・嗅覚を無視した言葉である。テレビの料理番組で、料理の味の感想を述べる出演者のボキャブラリーはいつも貧困で、視聴者をもどかしく思わせることが多いが、日本語にはもともと味覚に関するオノマトペや形容詞が少ないのだからしかたないのだろう。マンガ『美味しんぼ』では、「こっくりと調理する」「まろい舌ざわり」など、はたして辞書に説明されているだろうかと思われるオノマトペまで駆使しているが、そうせねばならない事情もそこにある。
 味覚に関する擬態語はほとんどないのだが、逆に、歯ざわり、舌ざわりなどの口中の触覚に関するものは多い。この例のように触覚以外の感覚が、触覚に還元して表現されることがじつに多くある。たとえば「ガンガンとつんざく音」「チカチカした色」「マッタリした味」「ツンとした臭い」などのオノマトペは、耳・目・舌・鼻への触覚的な刺激を表している。つまり共感覚(synaesthesia)の働きがみられる。そのうえパトス的、現実的な感覚を表す擬態語に、触覚的表現がなんと多いことか。このように日本の擬態語の構造から「触覚の表現的性格」の一面が明らかとなる。また、ともすれば軽視されがちな触覚の重要さに気づかされる。あるいは「五感のすべてが触覚に還元される」といわれることにも、改めてうなずくこともできる。
 日本には水に関係したオノマトペが多い。たとえば人が水を浴びて濡れるとどうなるか、──シッポリ・シトシト・シットリ・ジトジト・ジットリ・ジトー・ジクジク・ジックリ・ジュクジュク・ジメジメ・ジワジワ・ジンワリ・ジワー・ジュワジュワ、ヒタヒタ・ビタビタ・ピタピタ・ピチャピチャ・ビチャビチャ・ビチョビチョ・ビッチョリ・ビショビショ・ビッショリ、ベタベタ・ベトベト・ベットリ・ペチャペチャ・ベチャベチャ・ベッチャリ・ベチョベチョ・ベッチョリ、ボタボタ・ボッタリ・ボトボト・ボットリ・ボチャボチャ・ボッチャリ・ボチョボチョ・ボッチョリ、グシャグシャ・グショグショ・グッショリ・グチャグチャ・グチョグチョ・グッチョリ、ズクズク・ズックリ・ズッポリ………。皮膚と水の触覚関係をこれほど詳しく識別する民族があるだろうか。
 さらに注目すべきは、金田一春彦氏が「擬情語」と称する、心理状態を表す語の豊富な存在である。キュウン・グッ・ジイン・シックリ・ジックリ・ジワジワ・ジワー・ジンワリ・シンミリ・ホロッ……と心に染みて、ウットリ・ウキウキ・ワクワク・ジンジン・ゾクゾク・ハラハラ・ヒシヒシ・クヨクヨ・ムラムラ・イジイジ・ウジウジ・クヨクヨ・オドオド・ビクビク……とした気持ちとなる。──これだけならべると、浴びて、濡れて、染みるのが好きな日本人の特異な感性がみえてこないだろうか。
 日本人は「心に感じる」ことと「染まる」ということを「しみる」という同じ言葉で表現する。だから水や染料が浸透してゆくことと、心に感じることに、皮膚感覚を思わせる同じ擬態語を用いる。たとえばシックリ・ジックリ・ジワジワ・ジワー・ジンワリなどである。

風合い

 着物は、多くの人手を経てつくられ、売られる。たとえば分業化された友禅染めの工程にたずさわる職人の職種は20以上ある。製品は問屋、小売店を経て消費者にわたる。そして買い手が決まってから、買い手の注文どおりの仕立てにまわされる。着物は生産と流通過程において、反物の形で多くの人の手にわたるが、紙筒の芯に巻かれた小幅の反物はあつかいやすく、皺にならず、加工、運搬、検品、保存、展示などにまことに便利だ。また反物ほどコンパクトになる高額衣装も珍しいだろう。
 どの分業職種であれ、和装業界にたずさわる者は、反物を正しくあつかわねばならない。業界に就職してまずおしえられることは、両手で反物を回転させて、生地を芯に巻くことである。なれないとこれがなかなかできない。シロウトとクロウトの違いは、反物のあつかいひとつで一目瞭然である。小幅の反物はちょうど肩幅となっているため両手のあいだにほどよくおさまり、巻きあげた反物は、両端を両手でワシづかみするのにちょうどの太さである。反物を巻くコツは、小指の動かし方と、遠心力の利用にある。両手小指の速やかな往復運動とともに、反物をわずかに振り回すことによって反物が回転する。クロウトの手になれば、両手のなかで反物が踊るように回転をはじめ、巻き加減がかたすぎす、やわらかすぎず、ミミがそろって乱れず、たちまちロール状になる。そのようすにシロウトが感心するが、この程度のことは業界では誰しも当然で、改めて感心するまでもないことだ。
 反物を手であつかう意味は、反物を管理するためだけではなく、何よりも手で触って確かめることにある。反物を手にとっただけで生地の重さや厚さがわかり、かたさ・しなやかさ・腰などの触覚性、つまり「風合い」がわかる。この風合いこそ、着物に大切なものである。染め加工用の絹地は、重すぎても軽すぎてもいけない。また、着物は立ち居振る舞いの際のやわらかな美しさや滑(ぬめ)り が必要だが、強度も要求される。やわらかすぎれば、縫い糸に生地が負けて背縫いのお尻の部分で生地が裂けてしまう。ペラペラ、ヨレヨレでも、かたくてバリバリでも嫌われる。経糸と緯糸のバランスが重要で、張り・しなやかさ・シャリ感が要求される。
 先染め(織り模様)の着物は織屋が完成品まで仕上げ、品質に多少の違いや差があっても、客の好み次第で販売できる。しかし半成品の染色加工用白生地となるとそういうわけにはいかない。白生地には、一定の生地幅、生地長、重量などに加えて「風合い」が要求されるので、必然的にほとんど均質の生地が織られることになる。つまり白生地を織るには、どの織屋のばあいでも、経糸と緯糸の太さ・本数・撚り方・張りの強さなどが、織り組織の違いによってほぼ定まっている。もちろん生地生産においては、織屋がそれぞれ腕を競って独自の製品作りにつとめる。きわめて限定された条件下において、白生地の多様性が試みられる。
 素人目にはわからない違いでも、白生地の品質のわずかな差が大きな意味をもつので、問屋や悉皆(しっかい)屋が仕入れの際うるさく吟味する。紋織りの模様や、生地表面の「照(て) り」など、視覚的なものも問われるが、重要なのは「風合い」である。「風合い」とは、「おもむき」「あじわい」「なりふり」「すがた」の感じのことだが、生地の「風合い」には、とくに触覚性が重んじられる。それを確かめるには、何よりも手にとってみなければならない。とにかく触って「エエ風合いでんな!」「ハリがありまんな!」となれば合格である。生地をパッと握って放し、その直後に生地の皺の様子がどのように変化するかをみることもある。あるいは指で生地を挟んで滑らせるようにひねり、摩擦音をたてて「絹鳴り」を聞く。ちょうど新聞を配達中のオジさんが新聞紙を指でこすって鳴らすのとよく似た要領で、なれない者には真似ができない。「ギシ、ギシッ」はだめで、「ツルッ、ピッ」と透明な音が鳴ればいいという具合である。このように「風合い」を手と目と耳で確かめる。
 洋服と日本の伝統的な着物を比較すると、その対照的な特徴があげられる。洋服は、無地が主流でシルエット強調、体型重視、個人の身体の曲線に合わせて縫製する。一方着物は、全身に豪華な染織文様を配置、寸胴型、縫製デザインが一定の直線裁ち・フリーサイズである。着物の太い帯は、腰部を強く締めあげるもので、まるでコルセットのようだが、コルセットはドレスの下に隠して腰部を細くみせ、肉体のシルエットを強調する。帯は腰部を太くみせ、贅をつくした染織文様と帯の装飾的な結び方によって肉体のシルエットよりも帯そのものを強調する。縫製を主とした立体的・彫刻的なデザインの洋服に対して、着物は染織模様を主とした平面的・絵画的デザインである。このような着物や帯の存在が、日本に絢爛な染織文化を開花させる大きな要因となった。
 平面造形の着物の生地に「風合い」が問われるが、立体造形の洋服の生地には「ドレープ性」が問われる。「ドレープ」は日本語で「優美な襞」と訳される。ならばその反対語の「優美でない襞」という単語があるのかといえば、それはない。つまりドレープとは優美なものと決まっているわけだ。一方、ドレープの訳語の「襞」にわざわざ「優美な」と付されるのは、日本語の「襞」という語には「優美」という意味合いが乏しいからだ。布の襞の美しさは、衣服の基本的な装飾となり、ゆったりした着心地という機能面においても襞は有効なので、世界のいたるところに襞のある衣服を見出せる。日本でも古墳時代の埴輪にみられる裳や、江戸時代の肩衣袴など、襞の装飾効果を活かした衣服がみられるが、和服の基本はやはり襞のない直線裁ちのものといえるだろう。室町時代に南蛮渡来の文化がもてはやされたころ、南蛮文化の襞やフリルが脚光を浴びて一部で和服にアレンジされたこともあったが、日本の「襞文化」は西洋に比較してはるかに貧しい。それは言葉の違いに顕著で、たとえばドレープ(drape)、プリーツ(pleat 折り襞)、ギャザー(gathers 縫い集めた襞)、フリル(fril 襞の飾縁)、シャーリング(shirrimg 生地を縫い縮めた襞飾り)、スモッキング(smocking 襞上刺繍)などに相当する日本語の単語がみあたらない。
 着物と洋服の基本的特性を対比させる言葉として「風合い」と「ドレープ性」をとりあげることができるなら、さらに「風合い」が全感覚的美意識、「ドレープ性」が視覚的美意識を表す語だと解釈できる。「風合い」は全感覚的・直観的・具体的、つまりパトス的なものだから、それを表すのに数値を用いることができない。だから、シャリシャリ、ヌメヌメ、パリッなどと日本人が得意とする擬態語を駆使する。しかし測定によって係数を算出することができるドレープ性はエートス的、恒常的なものだ。ドレープ係数は布の垂れさがりの多少を示すもので、布のしなやかさと自重で決まる。
 布はやわらかく、膚にやさしく、汚れ、褪色し、いたんで朽ちやすい。触覚性を重んじることは、肌に馴染むやさしいものを愛でるということである。馴染むとは、うつろう・ほろびるに通じる。したがって触覚的美意識は「ほろびの美学」と表裏一体をなすものであろう。日本人はほろびやすいその布に絢爛豪華な芸術の華を多彩に咲かせた。日本の芸術の粋ともいえる染織文化は着物に開花した。
 西洋ではほろびやすい服地よりも、タピスリーに華麗な芸術世界が開花した。服地と比較して、おなじ染織品でも重厚なゴブラン織りのタピスリーのほうが「永遠の美学」に適うものだろう。タピスリー(壁掛け)の歴史には後染め (模様染め) の出る幕がなかった。一方日本の着物は織りよりも染めのほうが高級とされたため、着物に豪華な染めが施される。豪華な織りはむしろ帯にみられる。日本に着物があり、そこに染めの文化が栄えた。西洋ではタピスリーがあり、そこにゴブラン織りの文化が開花した。日本と西洋、染めと織り、その文化の違いは、根の深いところにある。

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