工芸教育研究会 設問

1)「工芸」とはなにか。純粋美術と工芸、工芸・美術・デザインのちがいとは
2) 今日の「工芸」をどのように創るべきか
3)「芸術」は教えることができるのか、工芸教育の今日的意義とは
そんなことから考えようとしているのが、工芸教育研究会です
工芸教育研究会は、大阪芸術大学における工芸関係教員の有志による研究グループのことで
はっきりとした組織や規定があるわけではありません。しかし、大阪芸術大学藝術研究所の研究計画や
特色ある教育研究の推進などの取り組みのなかで、具体的な計画を押し進めています

 

 

 

二一世紀の工芸、その可能性と問題点

福 本 繁 樹

 

スローライフと工芸

 世界がめまぐるしく変容する。開発、改革、環境破壊、情報化、国際化がますます先鋭化する。ところが一方では、前近代的なものへの回帰、大自然への憧憬、ローカルへの視点といったさまざまな傾向が、身近な動きにも顕著となっている。
 たとえば、大自然に恵まれた辺境の地の番組がテレビの人気となる。京都の町家保存運動のように、古い家屋の再生がブームとなる。デスクワークからの解放となるアウトドアライフやフィットネスクラブが流行る。アジア、アフリカなどの民族色がパワーをみせる。ファーストフードに対するスローフードの運動が世界的に盛り上がる。自然との対話のなかで、地域性、季節感、伝統性、素材の魅力、手作りをゆっくり楽しもうとするスローライフが謳われるようになった。
 近代化に逆行するかのような、さまざまなUターン現象は、単なる反動、反発とか、失われつつあるものへの哀惜や、無い物ねだりなどといったレベルでは説明できそうにない。これは人間の基本的な欲求による、いわば、豊かさに対する価値観のちがいに由来するのではないか。近代科学や経済の力によって、人類は大自然の克服をめざし、物質的にも豊かになった。しかし、それでもまだ人々の心は満たされない。ありあまる物量のなかで、ほんとうに欲しいものを求めている。より豊かな生活のために、本物性や独自性、癒しや慈しみの対象を渇望している。
 二一世紀になって「文化・グローバリゼーション・環境」が、きわめて重要な課題となった。機械の威力による大量生産、大量消費、世界的な画一化への反省から、文化の固有性が求められ、あたらしい時代の「ものづくり」のあり方が問われている。そのなかで「工芸」に注目し、ともすれば古くさいイメージを与える、その偏狭な固定概念を脱却し、現代の意味を探ろうとする動きもでてきた。二一世紀を迎えた地平から、いま改めて「工芸」について考えてみるべきときではないか。

みんなものづくりが好きだった

 こどもの頃みんなが熱中したものに、ものづくりがある。積み木、折り紙、砂場など、遊びの多くがものづくりだった。絵の具に手を汚し、粘土にまみれ、小刀で手を切ってまでも、ものづくりに夢中になった。ものづくりに、目を見開き、手を動かし、心をゆり動かすことが一体だっだ。
 みんな例外なく好きだった小学校の「図画工作」は、中学になって「美術」と名が変わり、教科書に「名作」が紹介され、なにか西欧の高尚な文化の香りをも感じさせるものとなる。美術をするには「まず頭で考えてから表現しなさい」などと先生から言われる。考えるまえに手を動かせばイメージがわくのに、なにか難しいことを考えなければ作品がつくれないように思えて、イメージもなえてしまう。そして「美術」は不得手だとか、嫌いだなどという者がふえる。「もっと自由に」とか、「真似ではなく個性を発揮しろ」などといわれるとなおさらだ。以来、ほとんどの者が、好きなものづくりに手を動かしたいという欲求のやり場を失ってしまう。
 でも、ものづくりに夢中になっている大人も案外多い。日曜大工、模型、プラモデル、手芸、文化教室、コンピューターグラフィックスなど、大人がものづくりをするとなると、ややマニアックな様相をおびてしまうが、方法はいくらでもある。ものづくりは、何歳になっても、誰にとってもおもしろい。
 芸術界では「自由で個性的な表現」がたいせつだと、その言葉が金科玉条のごとくに論評される。しかし「自由・個性」は、西欧モダニズムの価値観を示すキーワードである。また、個人の主張と独創性とはちがったことであることにも留意すべきであろう。かつて世界の芸術や工芸は、西欧モダニズムとは別個の存在として発展してきた。日本の伝統的芸術観もその例外ではなかった。
 もう一度、西欧モダニズムから距離をとりもどし、ものづくリの基本から、芸術を考え直してはどうだろう。ただ無心になってつくったものから傑作がうまれることもある。無心になれるほど熱中できるなんて、すばらしいことではないか。工芸の制作現場に目をむけることから、ものづくリの本質に迫ってはどうだろう。そこに21世紀における芸術のありかたを見出せはしないだろうか。

大学と工芸

仮に、二一世紀には、工芸に大きな期待がよせられるとしよう。ではその工芸は新しい世代にどのように伝えられるのか。かつては「一子相伝」として、父から子へと工芸の技が伝えられたが、今日では、より多くの若者が芸術大学で工芸を学ぶようになり、大学教育に工芸の未来が託されているといっても過言ではないだろう。
 しかし今日、工芸教育の現状にはさまざまな問題がある。たとえば、近年、急速に進んだ「大学の大衆化」もそのひとつだ。一九六〇年代以降、高度成長とベビーブームの波に呼応するように、全国の芸術系の大学数、学生数、進学率、教員数が飛躍的なのびをみせた。量的な変化は、質的な変化をも引き起こした。
 スイスにあるシンクタンクIMD(国際経営研究所)が毎年公表する調査によると、日本の高等教育の水準の凋落傾向はひどいありさまで、二〇〇一年には世界の主要国で最下位だという。日本の大学の非効率性は深刻な状況となっている。
 大学の大衆化のなかですすめられている工芸教育にも、さまざまな矛盾や問題がが生じている。少数の選ばれた学生の時代には「プロ養成」が積極的にすすめられていたが、大衆相手には、いつまでもその方針を維持できなくなってきた。では、どのような工芸を、どのように継承、発展させようというのか。
 現代の工芸は、かつての時代のものとはちがったものとなっている。工芸が実用に供されるものといわれても、今日では、はるかに実用的で廉価な工業製品が一般の日常生活をささえている。近代の工芸に求められてきたものは、実用性よりも美的価値や芸術的要素である。工芸の実作者は、実用性よりも、機能性のなかに美を求めることをめざしてきたし、素材・技法・プロセスに密接にかかわる「工芸的造形」によって創作の世界の可能性を探る芸術分野も活発である。「工芸」を「用と美」の二元論で語ることは、もはやできなくなっている。
 21世紀に、工芸が果たすべき大きな役割がある、工芸に脚光があてられるのだと主張するには、現代の工芸の意味を改めて再検証して、その根拠を示すことが必要だ。また、その主張を現実のものとするには、高度な伝統を伝えるこの日本の工芸の担い手こそ、その推進者だと自覚することから始めなければならない。

芸術観のグローバル・スタンダード構築に向けて

 「大学の危機」が叫ばれ、大学問題に関する膨大な研究論文が発表されている。しかし、これだけ芸術系大学が増え、そのシステム疲労が問題となってのに、芸術大学のあり方を検証する研究が公表されることは、きわめて少ない。
 「学術」を「学」と「術」すなわちサイエンス(知ること)と、アート(すること)に対照できるとすれば、双方の教育システムは、基本的に異なったものとなるはずである。しかし芸術を、大学の学科で学生が学問として学んでいるという事実は、サイエンス教育の方法論を援用することによって、芸術大学の教育システムが構築されていることを象徴的に明示している。ならば改めて、「芸術」独自の教育システムの根本的な見直しの必要性があるのではないか。
 日本の芸術大学の教育システムは、近代ヨーロッパの体系に倣ったものだろう。「美術・デザイン・工芸」という近代ヨーロッパの分類法によってカリキュラムが構成されていること、西洋画における写実主義の基本とされる、モノクロームによる陰影のみの描写(石膏デッサンや鉛筆精密描写)が、今日なお、日本の美術系大学の一般的な入試課題となっていることなど、多くの事実がそれを顕示する。そもそも 「芸術」とは「Art」の訳語であり、「Art」とは、しょせん西欧的な「ものの見方」にすぎないと指摘される。芸術大学に限らず、大学は、近代ヨーロッパ文化の移入装置の役割をはたしてきた。しかし今日、二一世紀芸術のために、西欧的スタンダードに偏重した芸術観を改め、民族による文化間の相違を認識したうえの、新たなグローバル・スタンダードを構築すべきであろう。「工芸」の再認識を、その可能性を探る起爆剤とできないだろうか……。

 

 

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