工芸教育研究会主催 セッション─大学と工芸
創作の現場における「発見」 パネリスト: 田嶋悦子(陶芸) 熊井恭子(ファイバーワーク) 橋本真之(金工) 司会: 柳原睦夫(陶芸)
長浜曳山博物館伝承スタジオにて、2000年11月11日
●柳原 きょうは遠方から、違った工芸ジャンルで精力的にご活躍中の、3名の先生方にお越しいただきました。もうみなさまも充分にご承知の方々だと思いますので、ごく簡単に紹介させていただきます。
金工の橋本真之先生は美術館で発表される数々の作品で、著名な造形作家でいらっしゃるし、織物の熊井恭子先生は創作活動とともに、いまは長岡造形大学で教えておられます。最後に田嶋悦子先生ですが、大阪芸術大学の陶芸科を卒業して、現在は大阪芸術大学の工芸学科の講師をしておられます。
パネリストの先生方にスライドなどを併用しながら「創作の現場から」ご自身のお仕事についてお話しいただくということから始めたいと思います。では田嶋先生からどうぞ。
田嶋悦子(陶芸)
●田嶋 では、私から始めさせていただきます。本日は数枚のスライドを用意しております。今回、橋本先生と熊井先生にはじめてお会いできるということで、まず作品を紹介させていただきます。
写真1:
「HIP GARDEN」1986年 サントリー・アートボックス
[写真1] ご覧いただいています作品は、いまから14〜15年前の東京での個展の全体風景です。大学を卒業したばかりのころで、自分がすごく若くて、どんどん湧き出てくるイメージをそのまま素材にぶつけ、あらゆるところに増殖してゆくスタイルで、作品制作をしていました。
私は大阪生まれの大阪育ちなんですが、関西では80年代にバブル経済をそのまま描いたような現代美術が流行しておりまして、彫刻もやたらサイズが大きいとか、絵画も色彩がド派手であるとか、絵画の世界も額縁からどんどんはみ出してしまって、インスタレーションという流行語まで生まれていたような時代です。私もそんな現象に便乗してしまって、作品を生むがごとく、あふれ出るように生産するというスタイルで制作していました。
いま思えば、大阪芸術大学の工芸学科の陶芸を卒業しているのですが、自分の頭のなかには、陶芸についてだとか、焼き物とは何であるかということはまったく考えていなくて、とにかく自分にとって陶芸は制作手段の一つにしかすぎず、とくに今回のテーマになっています工芸のことなんか、さらさら頭にも置いてないという自分でした。
写真2:
「FLOW No.2」 1989年 100×130×60cm
[写真2] 湧き出てくるイメージをそのままフォルム化し、作品づくりを進めていますと、自分のイメージを表現する手段として陶芸を選び、あくまでも焼き物のスタイルをやめようとしないことに気づくのでした。たとえば彫刻家や美術家の場合、その時々のイメージによって、今回は木を使うとか、ガラスであるとか、ファイバーであるとか、材料そのものを変えてゆく作家さんがいらっしゃいますが、私自身が焼き物から離れることができない、けっして切れることができないということは、いったいなぜなんだろうかと、そのようなことを考える時期でした。
そういうことで、それまでは外に向かってワーッと拡がった増殖の世界から、いきなり自分の世界に向かって入り込んでゆく。そんな姿勢とともに、自分自身で焼き物をかなり意識しながら、このような伝統的釉薬をあえて使って、作品制作を始めていたときです。
写真3:
「Sanctuary」 1994年 55×63×62cm
[写真3] それで、スタイルがまたガラッと、5年ぐらいの刻みで変わってしまうんですが、この時期は、いっさい釉薬を使わずに白化粧の焼きしめで制作しました。
なぜこのようなスタイルに変わったのかと、よく聞かれたんですが、以前、ジョイント形式で大きな作品を制作していて思ったことは、かなり大きなパーツを窯詰めするときに、「さあ、今回の窯詰め、窯出しはたいへんだ、どうしよう」と思案しながら、苦心して窯詰めされた作品を見つめていますと、窯のなかには大きな粘土板で囲まれた皮1枚の世界があるのみなんです。陶器はどんなに大きなサイズでも、なかはがらんどうの状態です。それで私はこの皮1枚を焼くためにこんなに苦労しているんだなと実感し、腰がよろよろしてしまうという状況でした。そのようながらんどうの皮の表面に、以前の作品のように釉薬をたくさん塗ったりすることは、まるで女性がファンデーションを塗りたくっているみたいで、そのような厚化粧スタイルに耐えきれないものがありました。それで自分としては、作家活動として焼き物制作を押し進めてゆくなかで、もっとも大切であるのはフォルムだと決め、フォルムについてもっと考えてゆこうと思ったのです。作品の表面に加飾されるもの、釉薬など、飾れるものをすべて取り除いてしまい、複雑に増殖した形態の余計な部分を切り落とす作業から始めました。
フォルムについて考えていますと、私は改めて大切な発見をしたのですが、作品だけでは立体として成立しないということなのです。つまり立体として成立させるためには、まわりの空気、空間をいかに作品といっしょに組み込ませるかが重要なポイントであると思いました。スライドでご覧いただいています作品は陶でつくられた立体なんですが、作品と空気を両立させるために、どのようにジョイントし、コンビネーションさせるかということを考えながら、作品制作をしています。
写真4:
「Cornucopia 99-IV」1999年 70×56×55cm
[写真4] そして、ガラスと陶のパーツがコンビネーションされた作品へと変わってゆきます。中央にあるピンクの淡い色の部分がガラスのパーツなんです。
私がどうしてこのようにガラスのパーツを組み込むことになったかといいますと、単にガラスの素材の魅力に引き込まれたのではなく、それ以前に、このガラスをつくる技法によるところだったんです。
私が陶で形・フォルムづくりをする場合に、下から上へと築き上げるというスタイルで完成させてゆきますが、ガラスのパーツは、いわゆるキルンフォーミング技法(パート・ド・ヴェール)で作られています。つくり方としましては、最初に粘土原型をつくっておいて、それを耐火石膏で型どりします。そして、なかの原型を取り出して型を空洞の状態にし、その型のなかにガラスの小さな粒をいっぱい入れます。次に電気炉にて焼成し、ガラスを溶かし固めて、最後には周りの石膏型を砕いて固まりガラスを取り出します。つまりは、自分がいちばん必要としている、なかに存在する形を取り出す作業だったんです。
私が陶のパーツをつくる手段として、手びねりやたたら作りの技法を用いますが、これらは形を築き上げるというスタイルです。私の選んだガラスのパーツは、自分の言いたい形をなかから取り出すというスタイル。それらふたつの大きな違いに惹きつけられ、両方の相反するもの同士をコンビネーションさせれば、自分のなかで新しいなにかが生まれるかも知れないと考えました。
写真5:
「Cornucopia」 2000年 42×47×21cm
[写真5] これは最近の作品なんですが、このように相反する世界をコンビネーションしますと、ガラスと陶がほどよく調和してくれるんです。これは自分にとって大きな発見へと導いてくれました。この相反する世界が両立するなかで、たとえばガラスを見つめていますと、陶とは違って、いくら固まりの世界であっても、人の視線を中心にまでどんどん誘い込み、光を吸い込んでしまうような、吸引力のある世界だと思うんです。それとは反しまして、陶というのは光をまったく通さずに、人の視線を皮膚的な表面で受け止める皮(がわ)の世界であるということ。そのようなそれぞれの素材の特質を、ガラスと陶をコンビネーションさせることで発見したことは、自分にとっての大きな収穫だと思います。
このような方法論で、光を通しながら、人の視線を内部まで吸い込む世界と、表面でそれらをガッチリ受け止める、皮膚的素材を組み合わせることは、陶器で言えば、釉薬と粘土の焼き物の世界に通じるんじゃないかと考え、そういう思いでこの作業を続けています。
私がそんな作品制作をしていて思いますことは、やはり陶器とは、表面的なとらえ方から、情緒的な世界──土味であるとか、釉薬の味であるとか、そういうところで、一般的に多く述べられる部分があると思います。自分が作品制作をするうえで、相反する世界を両立させる作業を進めてゆくことは、陶器を表面的方向からとらえた、情緒的なものよりも、陶器の断面から世界を見つめなおし、自分なりの陶芸観ができるのではないかと、いま陶芸を続けています。
●柳原 ありがとうございます。ひきつづいて熊井先生お願いします。
●熊井 私は大学ではビジュアルデザインを専攻しまして、織をきちんと勉強したわけではないんですね。大学卒業後2年目に、1枚のとても美しい布に出合ったのが、織を始めるきっかけでした。その布というのは、釣り糸で織られた二重織の布で、四角く風通にしたところにカラーポジフィルムを織り込んでありまして、それが半透明に輝いているという……。いまから30年以上前の話なんですけど、私はそういうものをまったく見たことがなかったものですから、ほんとうに驚きました。
そのころは、テキスタイルとか、タペストリーとか、ファイバーワークとか、ソフト・スカルプチュアとか、今ではポピュラーな言葉もまだ知られていないころでした。私も織という世界をまったく知らなかったんですね。これが手織という世界のものであるということを、そのときに初めて知ったんです。それが1968年ぐらいのことで、それから織を勉強したんですね、一年半くらい。ですから、ほとんど自己流で、三十数年やっているんですけれども……。
熊井恭子(ファイバーワーク)
ステンレス・スチールの細い線を使って布をつくっていると言うと、みなさんは、どうしてそういう材料を使うようになったのかと、とても興味をお持ちになるんです。でもとても単純な動機で、ただ布を膨らませてみたかった、風を孕む布をつくってみたかったという、それだけの理由で使うようになったんです。針金で丸みをつけてみたり、塩ビのシートを丸めてはさんでみたり、いろいろしましたけど結局、経(たて)の糸に金属線を使うと、ひょっとしたらうまくゆくかなと、着地のない冒険といいますか、そういうことをやってしまったんですね。
最初のころは、「なにこれ!」「こんなことしていいの?」というような感じで、認めてもらえなかったんですけれども、それでも私はおもしろくて、どんどんそれを展開してゆきました。だんだん、隠していたステンレス・スチールの線の背骨が表に出てきて、主役になっていったという過程なんですね。
ですから、きちんと勉強した人から見ると、とんでもないことをずっとやっているわけで。いまは、いろんなところで発表するチャンスをいただけるという状況になりましたけれども、始めた当時は手探りで、どうなるかさっぱりわからないという状態でした。そんなことを10年くらいやっていたと思うんですね。それで、ローザンヌのビエンナーレなんかに入選したりして、やっと認めていただけるようになったかなといったところです。
正直なところ、金属繊維での布づくりはテクニックとしてコピーするのが難しいというようなこともあって、他に同じようなものをつくっていらっしゃる方があまりいないので、わりといい気分で仕事をしています。
どういうものなのか、ちょっと見ていただきます。
写真6:
「風の道」 1987年 230×1000×30cm
[写真6] これがローザンヌのビエンナーレの作品なんですね。10メートルぐらいの幅があって、高さは2メートル30センチです。ディテール写真が展覧会のポスターに採用されて、自分としてはとても思い出深い作品なんですね。経糸がステンレススチール線、緯糸は黒木綿糸です。
写真7:
「AIR」 1991年 1300×650cm
[写真7] これが1991年にニューヨーク近代美術館で個展をやったときの作品で、「エアー」というタイトルです。織機を使わないでつくった布なんですね。つなぎ目のない、とても大きな一枚の布で、長さが13メートルぐらい、幅が6メートル50センチぐらいあります。自分で開発したテクニックと言うと大げさですけど、ステンレススチール線をからめてゆくだけなんです。170キログラムぐらいあります。ニューヨークタイムズにロバータ・スミスさんが90行の記事を書いて下さって、私の代表作のひとつと言えます。
写真8:
「AIR CUBE」 1996年 130×150×150cm
[写真8] 材料を手にして、いろいろやっていると、こういうこともできるかなというので生まれる作品が多いんですね。すべてオリジナルのテクニックで、これなども材料を手で揉んでつくる、スポンジのような金属のオブジェクトで、おおよそ1メートル50センチ立方です。これは群馬県立近代美術館に収蔵されています。
写真9:
「せんまんなゆた」 1996年 350×400×400cm
[写真9] これは京都のギャラリー・ギャラリーの、まっ白い空間──私は恐怖の空間と言っておりますけど、そこでの個展の作品です。巨大な卵のような立体を床一面に300ケほど積み重ねました。不思議なことに生あたたかい湯気のようなものを感じた作品です。
写真10:
「風に吹かれて」 1988年 20×20×20cm
[写真10] テキスタイルの世界は、割合ミニアチュールの展覧会が多くて、国際展なども盛んです。これは20センチ立方の小品です。いろいろな美術館にコレクションされています。技法としては経パイル織です。古い技法と新しい材料との出合いで生まれたものです。
材料を触っていると「こんなこともできる!
」なんて発見があるんですね。私たちが生きていて、いちばんうれしい瞬間は、なにかを「発見」した時じゃないかと思うんだけど、どの仕事も「ああ、できる。これだ」という感じで展開させていったものばかりです。最近、草むらを見たりすると、なんてきれいなんだろうと思います。とくに枯れた草むらなどは死に場所にやっと巡りあえたような気さえする程です。そういう気持ちを「叢生」という作品 [写真11] にしたりしています。風や草という自然からのイメージと、素材とが割合よい出合いをしたのではないかと思います。
以上で私の簡単な自己紹介を終わらせていただきます。
写真11:
「叢生」 1988年 1000×500cm
●柳原 ありがとうございました。それでは、橋本先生お願いします。
●橋本 自分の仕事はこういう仕事ですという話をするには、「果樹園──果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」という、長い題名の作品 [写真12] について話すのがいちばん手っ取り早いかと思っています。
この作品は、1978年10月20日に仕事を始めて、少しずつ制作が進み、最初にあった構造が内包されて重構造になり、それがまた反転して多重構造になって、という具合にできています。最初の中心近くの三つの部分ができるのに7年ぐらいかかったのですが、途中どうにもならなくなって放棄した時期が1〜2年ありました。
発表するごとに大きくなって、中心部から外に展開するということは、一度発表した作品が内部に隠れてしまって、かつて見た人にとっては記憶のなかだけにある。けれども作品に穴が開いていたりするものですから、かつての作品の一部を見ることができる。そういう構造になっています。
写真12:「果樹園──果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」1978〜00年
私の学生時代は、世の中が騒然とした学園紛争の最中で、学園紛争を脇目で見ながら自分の仕事をしていたものですから、美術のあり方、あるいは工芸のあり方、造形が社会的に無効な仕事だということを徹底的に感じさせられたということがあります。
当時はリンゴばかりつくっていて、リンゴをつくるということが、工芸であろうとするのか、美術であろうとするのかということについても、私にとってはほとんど無意味なことでした。自分になにか造形的なことが可能だとすれば、どこを突いてゆけばよいのかというようなことばかり考えながら、リンゴをつくっていました。
「なんでリンゴをつくるんですか」っていうふうに聞かれるのですが、18〜19歳のころ、自分が油絵を描いていたときに、長いこと描いていたリンゴが、目の前で腐っていって、だんだん変化してゆく。それが目の前でグラッと動くというようなことを繰り返し見ていたわけですね。
描くということよりは、自分の目の前にあるものは自分にとってなんなのだろうと考えた。美術作品だったり工芸作品だったりというものが、1個のリンゴの隣では、いったいなんなのだろうというようなことを考え込んでしまったのです。一つのものの存在には、世界構造として成立しているものがあって、その隣にある作品というものを、どう立ち上げることができるのかと……。そんなことを考え続けて、リンゴばかりをいくつもつくっていました。私は鍛金という方法で出発したものですから、鍛金という金属の膜状組織を叩いている作業のなかで、たまたまリンゴの膜状の形態が反転して、その構造が二重になるのを見つけて……、お二人のお話のなかにもあったのですけれど、私にとっての「発見」だと思うんです。
そのことによって、形態自体に中心の軸構造が出てくるということを掴んだものですから、それが一つの核になり始めて、自分にとって作品の構造というようなことが見え始めた。鍛金は伝統的な工芸技術なんですが、私にとっての鍛金という方法がどういうところに展開しうるのかということが、そこで始まったと思います。
そのことによって、私には対象物としてあったリンゴが必要なくなってきて、自分自身の内に発生の「原器」というようなものが出てきたわけです。表も裏も、内部も外部も等価値な膜状の作品構造として、反転し展開するという運動そのものを、自分の造形活動と捉えて「運動膜」と定義したのです。
私は鍛金という技術によって、造形思考を展開しえたわけですけれども、「果樹園……」という作品は、鍛金という方法を徹底して、かつての鍛金の方法を踏襲するのではなく、自分にとっての方法に、自らの「生」を徹底して充填したらどういうことが出てくるのかという問題でした。ある程度の大きさになってくると──私以前にあった鍛金というのは、制作中の作品を左手で持って、木の台の上に当て金という鉄の道具を固定し、その上で金属板を叩くという方法が主なんですけれども、そういう方法では、自分の体重を超えると、ちょっとバランスをくずすと、当て金と作品とともに自分が転げ回ってしまうのです。これではどうにもならない。そのかわりに鉄の塊を自分の左手でもって、それを当て盤というのですが、当て金の代わりに自分の手で受ける。作品を溶接して、それをならすという、一般的に当て盤というのは、自動車板金の人がよく使う道具なんです。そういう道具を使っていたわけですけれど、最初のうちは、金槌の衝撃を受けるだけの体力、筋力がないのですが、何年か叩いて受けているうちに、だんだん筋力がついてくるものですから、自分の利き腕の右手よりも左手のほうが強くなってくる。そうすると、固定して使う当て金よりもフレキシブルに動いて、手がとどくかぎり上下左右自由に叩ける、しかも金槌の代わりにもなって内側からも叩けるという自由度が出てきたわけです。そうすると溶接して、それをならすという板金屋さんの仕事以上に、当て盤で金属板を絞ることができるようになって、「果樹園……」のような仕事にまで展開可能になってきたということなのです。
私は、「1本のリンゴの木の隣に自分の作品があるとしたら、そこにあって恥ずかしくないような、充足しうるようなものでありたい」という願望をもっているのですが、これを実現しようとすると、美術の因習だとか工芸の因習だとかというのを取り払ってしまう必要があったのです。作品を発表したあとに、そのまま永遠に残したいというあり方をはずしてしまえば、作品と私とのひとくくりのあり方を存在形式とした「運動」としてとらえることができるのではないかと、考えるようになりました。
そういう「果樹園……」のあり方で拡がっていったひとつの方向は、展開を徹底すると、どういうことが起きてくるのか?ということで、いまだに続いているわけです。その一方で、今度は叩いて縮めてゆくというか、しわを寄せて叩きつぶしてゆくわけですけれど、銅の膜が塊になってゆくという方向があります。これ以上小さくならない状態まで銅の膜を潰していって、それでもなお叩くのです。
そうすると、いくら塊になったとしても、膜の組織にしわが寄って縮まっているわけですから、融合はしていないわけですね。ですから、力を加えてゆくと、今度は金属自体が反発力を示し始めて、鉱物でいうと、ちょうど雲母みたいな状態になってゆくわけです。薄い膜が層状に重なって拡がり始める。叩けば叩くほど拡がるという状態になってくる。その方向を「凝集力」というふうに概念化しているんですけれど、その方向は「果樹園……」の作品のようには人を驚かすこともありませんから、あんまり評判にはなりません。仕事場で密かに叩いている仕事がいまも続いている。ときどき発表しているのですが、会場のなかでもほとんど黙殺される存在です。
橋本真之(金工)
それからもう一つですが、7〜8年前に出てきた仕事です。それは「切片群」と概念化しています。大きな作品をつくっていて、銅板を継ぎ足してゆくわけですが、曲面に銅版を合わせてゆくと、切れ端ができます。
それは、つくり始めたころから、仕事場の隅にだんだん積み重なっていって、金属の尖ったものがいっぱいになるわけです。私は捨てることができずにいて、あるとき気まぐれで、それを鉄床の上で叩いてみたのです。平べったく叩いてゆくと伸びるわけですが、それをいくつも叩いたあとに、こんどは角を立てて叩くという、ちょうど落ち葉を丸める感じですね。あるいはちょっと丸まっているようなお菓子がありますが、そういう状態で、内部に空間を包み込むように、縁どうしが結びつくように叩くと、形態がねじれてゆくんですね。動物の角のねじれたような形だったり、ちょうど貝の螺旋構造のようなものが出てきます。さまざまな類型ができてきます。つまり、自分がつくった運動膜という方向の形態の残りの形から作品を立ち上げるというようなことが起こり始めた。これまでにほとんどの類型は出てきたかと思えるのですが、そのあり方の可能なすべてを尽くしてみたいというのが、切片群の「群」という所以です。金槌の当たり具合で、瞬間的に形態が顕れ、消え、方向が動きますので、瞬間の判断力が必要な方向です。
そうしたなかで、廃棄されたものに造形意識の焦点をおくことで、逆に元の形態をつくることを動かすという事態になってきた。長くなりますので、細かな説明は省きますが、運動膜と、その外縁である切片群がせめぎ合うような形のあり方が出てきているわけです。
1985年でしたが、野外空間で作品を展示するということを要請され、はじめは自分の作品を単純に持ち出せばよいと考えていて、それではすまないということに気づかされました。自分の密室空間のなかで成立していた作品が、そのまま野外空間に置かれるときには、ひじょうに惨めなものになるということが体験としてあって、「一本のリンゴの木の隣で恥ずかしくない存在にならなければならない」という意味のことを自分のなかで認識したわけです。野外空間において、作品を立ち上げることができるとすれば、まずは、その1本の木を置いてなんの拠り所もなかったということで、木に関わる仕事を始めた。
そのときは、野生えの松の木が十数本まばらに立っている空間でしたが、その松の木の幹のなかほどを半分覆うかたちで固定して設置するという作品をつくりました。それは仮設置ですから、展覧会が終わると、木から取りはずして持ち帰ってくるわけです。今度は木がないわけですから、幹の半分を銅だけでつくり続けて、次に展開してゆくという、そういうやり方をしているうちに、私の仕事を見続けてくれていた人が画廊をつくることになって、前庭に木を植えて設置してはどうかという案を受け入れて下さいました。エゴノキを株立ちに植えて、そのあいだに作品を設置するということで、作品を屋外の木に絡めてつくるという最初の「恒久設置」ができました。
その後、公的機関が関わっての企画でしたが、共同住宅前のケヤキに設置する計画が通りました。これは最初の私的な前例があって初めて可能になったのだと思います。このことは、その後の展開を考えるとたいへん幸運でした。
三つ又になっているケヤキを選んで植樹し、最初に松の木の幹につけた作品を展開して、枝分かれしている幹に絡めて設置しました。作品が設置されてから、いま12年たっております。 [写真13]
当初にもくろんで想像していたことですが、ケヤキの木が育ってきて、作品の一部が三つ又の幹のあいだに埋もれてゆくという状況を、いま見ることができます。
写真13:「愛宕のケヤキに」1989年
自分の作品が自分の手を離れた段階で、ある種の作品構造としては成立しているわけですけれども、自然のなかにある樹木に絡んで接触し合ったり、あるいは蜘蛛の巣が張ったり、落ち葉が積もったり、雪が積もったり、そういう自然の変容を作品のなかに受け止めて成立しているようなものを展開している。私は、自分がいなくなった後のことを考えざるを得ないところで、仕事を展開しはじめたのだといえると思います。
埼玉県立美術館で私の仕事を収蔵するという話が出たとき、「私の作品を購入して下さるのでしたら、ただ作品を保存するのではなくて、作品のあり方そのものを収蔵してもらえないでしょうか?」とお願いしまして、田中幸人さんが館長だったのですが、即座にそれを受け入れてくださいました。美術館側との相談で設置場所の選定をしたのですが、かつて美術館のアオギリの木からぶら下げる状態で展示した作品があったものですから、その後の展開で、仕事場の庭に横たわっていた作品を、この木の傍らの植え込みに設置しました。
1年間展示したあと、また仕事場に持ち帰って制作して、さらに大きくしたものを再設置しました。博物館法で作品収蔵と保存というのがあると思うのですが、公立の美術館が作品の変化・変遷を、まるごと作品のあり方として受け入れてくれるというやり方で、いまも続行中です。今年の10月にも増殖する形で設置してきました。
いまの美術館は予算がほとんどない状態で、こういうあり方がひじょうに難しいところがありますけれど、すくなくとも1996年に収蔵になって、そのあと2度、増殖のあり方に対して予算を付けてくださいました。ありがたい社会との関わりだと感謝しているところです。それが今後どうなってゆくのか、私自身もまだつかめないんですが、この仕事が続行できるように学芸の人たちが努力してくれているということに、応えられるだけのことはしたいと思います。これは最高の仕事にならなければなりません。
この作品を設置するときは、現場で何日か叩かなくてはならない。近所迷惑な音なのですが、「最近、楽しみで……」と見に来る人たちがいまして、自分がかつて見たものがまた変わってゆくことを、一緒になって想像している人たちがいるというようなことで、私は心強く思っております。自分の仕事は、反時代的な密室の作業で、だれかに通じるとは思ってもいなかった。そんなことは、ほとんど不可能だと思っていたわけです。けれども、それほど悲観的でもないなと、針穴みたいなものがちょっとでも開けば、もしかして通じるかもしれない、そういう実感を持ち始めています。
話が長くなって失礼しました。
●柳原 いま、お三方から、作品に即した自己紹介をしていただきました。それぞれ世代が違うし、当然、作品のスタイルも、造形の論理も違うんですが、私も同じ物をつくる者のとして、こんなにおもしろいお話をうかがったのは、最近はあまりありません。これから話を進めていただきたいんですが、ちょっと橋本さんの話が長くなったものですから、少しお休みをいただいて……。
●橋本 ごめんなさい。
●柳原 だけど橋本さんがおっしゃったことは、作品の展開として、すべて必要で、1本のリンゴの木の隣の作品の存在性というような言葉もたいへん刺激的で、最後のお話も、美術館と個人の作品の権利に関わる画期的な問題提起です。
田嶋先生も熊井先生も、それぞれまったく違うようで、いろいろな共通点をもっておられる。それは熊井先生がいみじくもおっしゃった「発見」というようなこと、これが一つのキーワードになるのではないかと思います。
素材とご自分との関係のなかで、ただ単に素材にもたれかかって、素材が違う表情をしてくる、それを待ち受けるというような消極的な姿勢ではなくて、八木一夫先生の言葉を引用させていただくならば、「むしろ素材を積極的に手許に呼び寄せながら、発見がなされてゆく」というようなことだと理解しています。
お三方に共通して、植物的なものに対する関心、自然に対する関心というものがひじょうに強い。熊井先生の場合には針金という素材を使ってらっしゃる。感覚的に痛いんじゃないかというものを。工芸は人に優しい──とくにいまは優しさを求められる、そんな時代に、痛々しいようなものを……。しかし、印象的だったのは、植物の野原のようなものと、ご自分の茫洋とした形態のイメージを重ね合わせて、表現を強調されるようなところもあって、おもしろいと思いました。
柳原睦夫(陶芸)
いただいたお話のなかにいろいろとテーマがありますが、植物が重視されています。これは、動物と違って植物は、かなり長い生命をもっている。私たち動物はどんなにがんばっても、ある限定された時間的な制約をもっている。そういった差でもって、作品のイメージに植物があるのかもしれません。
田嶋先生の場合は、明らかに植物のイメージがはっきり出てくるわけですが、その関わり合いを、もう少しお話しいただけますか。
●田嶋 いまご覧いただきましたスライドからおわかりのように、植物、私の場合はとくに花をモチーフにすることが多いです。でも花の名前であるとか、それがどういう種類の植物であるという、図鑑的なことはまったく問題にしてないんです。いちばん気になっている部分はフォルムなんですね。
植物をよく観察することは、以前からありました。植物が成長するエネルギーはとてもすばらしく、また植物のフォルムには人間を代弁するかのようなところがたくさんあり、作品を制作するうえでのヒントになっていたと思います。私は植物を見つめ、花のなかまでのぞき込んでしまうことがあります。一見、複雑で有機的な曲線が植物を支配しているかのように感じられますが、でもよく見つめると、植物はある一定の法則と秩序をもって幾何学的な美しいフォルムで存在しているのです。それは不思議というより、ある種の感動があり、私にとって大きなイマジネーションをよびおこすものとなっています。
だから、植物を見つめることで、自由でありながら決められた法則とか、満たされる自分とか、そういうことなど共感しあいながら、モチーフにしているところもあります。
●柳原 熊井先生は、織物の伝統的な素材ではなく、ステンレス・スチールというようなものに出合われて、形態をつくるのが便利になったと話されましたが、最後に「枯れた草むらなどは死に場所にやっと巡りあえたような気さえする」というようなお言葉が出てきて。ご自分の仕事と自然との関わりに最近変化をきたしつつあるというお考えがおありですか。
●熊井 学生のころ、自然──とくに植物をモチーフに、または植物のイメージを表現するという課題がよく出されました。そのころは、その重要性が実感としてわからなかったのですが、最近は無意識に自然に学んでいることを実感します。五大(地水火風空)や植物をテーマにしているということです。生きるというのは40億年の生命の旅を生き直すということではないかと思います。海水の泡から生まれ、40億年の旅を経て、いまここにある繊維と水でできている生命体という意味では、植物も動物も、とても似た存在だと思います。
「人体の不思議」という展覧会で人間の内蔵や血管を取り出して樹脂で固めたものを見たとき、植物と同じだと感じました。とくに毛細血管は植物の枝とほとんど同じ構造で、驚いたことがあります。動物の内側の部分だけを見せているのが植物なのではないかと思うことがあります。私たちが植物からさまざまな示唆を受けるのは、自分の姿の見えない部分を具体的に知りたいからではないでしょうか。植物をモチーフにするのはこのあたりにポイントがあるような気がしています。
●柳原 橋本先生、「うつろい」のようなものと、ご自分の作品の存在性といったものを対置して、取りくまれているということがあると思うんですが、ご自身のなかで、日本人的な体質というようなことをお感じになることはありますか。
●橋本 日本人だなと思うことはありますね。外国人のものの考え方と、自分のものの考え方、感じ方が、どこかで食い違っているように感じることがある。それが根本的にどこに起因するのか、まだよくわからないですが……。
私自身は外国に行ったことはない。日本以外の土を踏んだことはないんです。映像で見たり、本で読んだり、外国を想像しているにすぎないんです。しかしヨーロッパや日本の造形的なものを、子どものころから見続けてきて、どこかで、なにか出発が違う感じがする。それが明確にならないことがもどかしいんです。ただ、実際に自分が作品を発想するとき、どういうふうに展開していったらいいのか考えるときに、自分の育ってきた環境とか、具体的に小さいときから見ていた木だとか、土だとか、四季の移り変わりだとか、そういうものをたよりに判断していると思うんですね。砂漠のなかにいる人たちが空気の質を感じるのとは違うだろうなと思います。
若いときにエジプト史を読んでいたら「中庭」という言葉が出てきて、そのときに「中庭」という言葉一つで、「あっ、これは違う人がいる」という感じがした。
私が中庭という言葉から感じるのは、湿っていて苔の生えた、ナメクジかなんかがはい回っているような、水気の多い空間です。しかし、エジプト史のなかで、いかにも乾燥した世界のなかに中庭という言葉が出てくると、そぐわない言葉のように思えた。エジプト古代の中庭がどういうものであるのか、実際に見ていないわけですが、すくなくとも自分のなかでの違和感がはっきりしていた。それが、自分の世界把握の質をはっきりさせるきっかけになったという記憶があります。
●柳原 作品が「完成する」ということは、それぞれ違うと思います。この作品は一応これでいいんだというときは、お三方それぞれ違う。ちょっとおたずねしたいんですが、田嶋先生の場合はわかりやすかったんですよ。おそらく完全な仕上がりをイメージされていると思うんです。だから、技術性でご自分を律してゆかれる部分があるように思います。熊井先生は、ゆったりと感性の流れのなかでいろいろ仕事を追求されているので、完成ということをどのようにルール化されているか。
いちばんの難物は橋本先生。完成のない完成のような、終わりなき連続性というようなものをお考えなんですが、そんへんをちょっと補足的にお話し願えますか。理想の仕上がりというようなことがありますか。田嶋先生から。
●田嶋 ガラスと陶をジョイントさせるまでは、自分に伝わってくるものがまったくわからないですが、形態の上での仕上がりのイメージ像はあります。
私は以前から橋本先生の作品の、その仕上がり──いつ終了して、いつどうなってゆくんだろうというのが、いつも気になるところなんです。たとえば、過去につくられたものを見て、また増殖させてゆくというものは、されるのでしょうか。
●橋本 するんです、はい。すべてが途上にあるということです。
●熊井 私の場合、つくっているときに完成した姿を見ることが、ほとんどできません。展示スペースに置いて、ライティングして初めて「ああ、こうなったのか」というようなところがあって。「こうなるはず」と思ってつくって、ほんとうにそうなると大満足ということになります。
●柳原 よくわかります。自分に明確なルールがあって、こうだって。ある種の伝統主義者の仕事が退屈なのは、そういう勝手なルールを自分でつくって、名人、達人になってゆくという、なんのおもしろみもないんです。しかし、そういいながら、あるところまで行きますと、そういう問題がまた復活してくるんですね。自分が行き詰まったときなんかに……。
橋本先生。ずっと続いてゆくんだ、持続してゆくんだということと、けりをつけなきゃいかんという、そういう自己矛盾に遭遇されることもありますか。
●橋本 私は発表する段階で、ある収斂の仕方としてもっていますね。作品の大きさが入口から入るかどうかって、それはいつも頭を悩ましている。
たとえば、11月の末から個展があるんですけれど、これ以上、拡げられるかどうかということで、昨日も電話で「入口は正確に何センチですか、もう一度計測して下さい」「ダメだったら、作品をちょっと歪めて強引に入れるから」とか、そういうやりとりをしてきたばっかりなんです。
画廊空間で発表するとなったときに、そこまで持ってゆけるかどうかということは、いつでも気にしていますね。それから、自分の仕事場のなかで仕事をしていて、へんなものができるというのが常にあります。女房とよく話をするんですけれど、仕事場から帰ってきて「ちょっとへんなものが出てきちゃったんだけど見てくれない?」という感じで、自分のそれまでの許容範囲になかったものが出てきて、自分で判断が利かなくて迷うときが時々あるんです。それを女房にまずいちばんに見せて「どう思う?」って聞きます。それで判断がつくというわけのものでもないのですが、客観的な眼が必要なときが、ままあります。
私は完成度というようなことは思っていなくて、「ここを徹底的に押すとどうなるのか」という感じなんですね。だから、なにかが完成するという感じがもしあるとすれば、私のなかでは作品世界の構造がなにかを呼び込んできて。私は「上澄み」と言っているのですが、存在の上澄みみたいなものをそこに引きこめたらいいなと思っているんです。完成とはすこし意味が違いますが、私はそういう状態を望んでいます。
●柳原 橋本先生には現在の問題を伺いましたが、ほかのお二人の方にもお聞きしたいのですが、ここ5〜6年を展望しまして、どういうふうな展開をされていますか。先行きは希望に満ちていますか。田嶋さんはいかがですか。まだまだやりたいことがたくさんあるようですが。
●田嶋 そうですね。もちろん満ちています。
●柳原 熊井さんの場合にも、まだこれからいろいろな、作品の内容的なことはもちろん追求されてゆくんでしょうけど、発表の形態とかね、あるいはコミッションの仕事とか、現実の生活だとか、展望はかなり楽観的ですか。それとも……。
●熊井 私はやっぱり、常に革命でありたいんです。モノ作りという意味でね。人間が意志をもって行動することを「デザイン」というのだと、私は思っています。そのなかの革命といわれるものをアートというのだと思っています。
デザインはみんなのものですが、それでお金をもらっている人は、私流に言えばアーティスティックデザイナーということになります。
私がいう革命とは、「壁」でしかなかったところに窓を開けて、見たことのない風景を見せるということです。政治家のなかにもアーティストはいます。学問の世界にも、医学の分野にも、もの作りの世界にも、あらゆる分野に。ノーベル化学賞を受賞された白川(秀樹)博士の研究は、これこそアートだと私は大感激でした。プラスチックは電気を通さないという「壁」に穴を開けてしまったのですから。私もこのような仕事をしてみたいものだと思っています。
●柳原 青春ということですね。
●熊井 でありたいです。
●柳原 橋本先生のお話のなかに、学園紛争を体験なさって、美術表現といいますか、造形などが社会的に無力といいますかね。そういう実感をもたれて、ある一つの挫折があったと思います。
陶芸には前衛運動というようなものがあって、それはそれなりの結果を私たちにもたらして、出発点を拡大しているんです。選択肢が自由になって、いろいろのものがある。しかし自由といっても、百貨店に行ってなんでも買える、買うことができだしたという程度には自由になったわけですけれども、そういう意味では、私はやはり陶芸表現で前衛性というのは、あまりたいしたことではなかった。それほど自由でもないんだという気が、いましている。
私は最近、やっとそういうレッテルを貼られなくなったんです。ときどき前衛派と言われて、言われるとガッカリします。まあ、この言葉も死語になってきたんですが。
どうなんでしょう。日本の工芸というものは、いまどういうふうな眼で捉えていいものでしょう。アートと工芸の差はないというようなことを頭から言って、ひじょうに大づかみに工芸の枠をくずせという議論がありました。いまでもそういうことが言われます。しかし、私にはひじょうに軽率な発言としか思えない。やはり工芸というのは、工芸として考えなければならない問題があるのではないかというようなことを意識しています。田嶋先生、工芸とか美術とかいう問題はいかがですか。
●田嶋 さきほどスライドで卒業後間もないころの個展での作品を紹介させていただきましたが、そのときは、ほんとうに工芸のことについてはさらさら考えていなかったというか、陶芸も単なる手段だったわけですね。でも、やはり自分が一つの素材を見つめ、また大阪芸大の陶芸コースで教える立場になりまして、工芸をちゃんと考えなくてはという意識をもつようになりました。工芸とは自分のなかで、やはり物の存在、その物が人にどう影響を及ぼすかというのが一つの基盤というか、重要な要素だと思っています。言葉にならない感動、すばらしいとか、いいとか、脳に直結するような、すてきな物との出合いが、その物の存在をあきらかにし、それが自分にとって工芸のいちばんたいせつな部分じゃないかと思っています。まだほんとうに模索中ですが、なにか脳裏に響くような、「あっ」と言うような感動をもたらすようなものが……。
●柳原 ここで最後の問題として、大学という教育機関。私たちが工芸を教えるというようなことにつきまして、お話いただきたいのですが。
私個人の考え方をかいつまんで申しあげますと、自分でつくる以外にないと。自分の行為を見せることはできても、教えることはできない。そういうことを前提にしておたずねします。先生方で、なにか教えるということについて、ある一つの定義のような、明確なお考えをもっていらしたら、聞かせていただきたい……。
●橋本 柳原先生のご意見に賛成です。私は学園紛争の最中に卒業せざるをえなかったものですから、自分は大学と授業の問題というのに深く悩んだ世代なんですね。私自身は学部は卒業しましたけれど、大学院は中退で、自分の仕事場をつくって出てしまいました。私は学園紛争の運動は横目で見ていたわけですけれど、芸大の場合は、政治運動よりも、カリキュラム問題がいちばん大きかったですね。
カリキュラム撤廃運動というのが起こりまして、私は大賛成で、鍛金の教室でも、教授に向かって「カリキュラムはいらない」という話をしていた。私の場合はリンゴばかりつくっていられれば、それでよかったので、カリキュラムが必要なかったのですが……。「教授は工房を学内にもっていればいい、ただ実際に近くで仕事をしてください。どうにもわからないことがあったら聞きに行きますから、そのときには義務として教えてください」、そういうことを学生の分際で教授に向かって話してました。
当時は、課題そのものをやらずに卒業できなかった者や、留年している者がいて、私は巧みに自分の仕事に引きつけて、課題をやってしまったという、どこかで恥ずべきことをしたと思っていました。実際、他の科でしたが、私の仲間で、「こんな愚劣な課題はやらない」と言って留年したのがいたし、卒業しなかったのもいる。それは、肩肘張っていた時代ですから、やってしまえば簡単にできてしまうようなことでも、やらないことが自分の意思表明だということがあった。
いま当時の大学の工房のあり方というのを思い出して、すくなくとも作家が教授になっているのなら、学内で作品をつくって、制作現場での作家の姿勢を、学生たちに公開する必要があります。教授の制作現場に触れるというあり方でなかったら、大学のなかでなにかを教えられたり教えられなかったりということが成り立たない。さもないと教授は単なるわけのわからない権威の存在でしかなくなってしまいます。学生が教授を選択できる状態であれば、また別の話ですが。
かつての徒弟のあり方だと、学生側からすれば、見たくもなく、見る必要もないことがあるわけですよね。すくなくとも師匠の仕事をまるごと自分が受け取りたいというのであれば、なんであっても我慢してよいと思うんです。けれども大学というところは、一つの教育研究機関が公的にあるわけですから、そのなかで教える、教わるという形態としては、学生も教授もむき出しに作家の顔を出してゆかないと成り立たないんじゃないかと思います。
●柳原 熊井先生、教職をされていますので、なにか考えがございましたら。
●熊井 私は大学時代にはぜんぜん違うことをやっていて、卒業してからこういう仕事を始めたわけです。
大学では、基礎体力というか、基礎造形力を4年間みがく、修練するのがいいんじゃないかと思っているんです。卒業してどれだけ集中してやるかということにかかっていると思います。しかし、いまはそういうことはまったく許されないわけですね。橋本さんのような学生さんというのは、ほとんどいないわけです。全部教えてほしい、なにもかもぶらさがるという、指示待ち症候群とよんでいますが、自分でわかってゆくしかないのにというジレンマを感じながらも、織の世界のテクニックをたくさん、とにかくなにもかも教えます。なんとか卒業制作にいいものをつくってもらいたいと必死でやっている状態です。
●田嶋 私の場合も毎日ジレンマといいますか、おだてて、なぐさめて、「がんばってる? きょうはいい天気だね」と学生に声をかけながら、いたわりの精神をつくらなくちゃ、という毎日なんです。彼らは若くてどんどんできるはずなのに、自分で壁をつくってしまっています。そんな学生たちをいかに解放させてやるかなんです。自分の学生時代とはずいぶん違います。学生を突き放して、物を見てこいとか、つくれとかいう次元じゃなくて、まず「きみはファイトがあるんだよ」「やればできるんだから」という、そんな基礎体力をつけることから、こちらがやらなくちゃいけないなというのを実感しております。
●柳原 ありがとうございました。これで一応、この研究会の目的である「大学と工芸」ということについても、三者三様、制作の現場で活躍されている方ならではの貴重なご意見もいただけました。あとは懇談会の席でお話を続けるということで……。先生方、ほんとにありがとうございました。
また本日は、10月1日にオープンしたばかりの長浜曳山博物館にご協力いただき、曳山の資料を解説くださり、セッションの会場にりっぱな伝承スタジオをご提供いただきお礼申し上げたいと思います。(拍手)
本稿は、『PORTFOLIO 采/綴
AYA/TOJI 大阪芸術大学 染織 2000-2001』に掲載された、工芸教育研究会主催セッション「大学と工芸」の記録である。2000年11月11日、10月1日にオープンしたばかりの長浜曳山博物館の伝承スタジオに、陶芸、ファイバーワーク、金工の分野の第一線で活躍される工芸家の皆様にご参集いただき、熱弁を聞かせていただいた。期せずして、「創作現場における『発見』」のお話が、パネリスト全員の口から伺えたのは、たいへん興味ある結果だった。このことが工芸制作における重大な意義を示していると考え、それを本稿のタイトルとした。