布・染み染み−福本繁樹作品集

FUKUMOTO Shigeki: Rozome-Collected Works 1989-1998

1998年 光琳社出版刊、2800円(税別)。序文:福本繁樹「布を染める」、金子賢治「並置と継起の輝き」。アートディレクション:石浜寿根。A4判、カラー40頁、モノクロ16頁、全56頁。カラー図版39点、モノクロ図版25点掲載
注文方法: 代金3280円(本代、消費税、郵送代)を【京都中央信用金庫 円町(えんまち)支店 普通 0211625 福本繁樹】へ振込後、Fax(075-462-0565) にて振込証明と郵送先を連絡いただければ、当方より郵送いたします。



書評 BOOK REVIEW
 著者は現代の息吹が通う創造的なろう染め作品で知られる京都在住の染色作家。本書は、この10年の制作の軌跡をカラー図版でたどる作品集だが、著者自身のエッセーや作家論も収められ、現代染色の魅力を知るためのかっこうのガイドブックともなっている。
 「素材の生理は殺すものではなく、生かすものである。技法や、制作のプロセスは克服するものではなく、開発するものである」という染色論は、金属的でシャープな構成を試みた作品や光を感じさせる明暗の対比効果を狙った作品など、果敢な挑戦を続けてきた作家だけに強い説得力がある。
文化 批評と表現 ほん 『毎日新聞』夕刊 1998年5月29日 

 染色作家の福本繁樹氏が作品集「布・染み染み」を上梓した。ロウケツによる型染、あるいは切り嵌めといった手法を用いることによって、シャープな表現の日本的美意識がきわ立つ作品を展開する作者の、1989年から98年までの作品をまとめている。
 「ほぞ」「襞と壁」「壮大な直線との遭遇」「布象嵌」「裏彩色」と、本書では作品をいくつかのキーワードで分類収録している。その作品を辿っていくと、それらが、単に便宜的な分類項目ではなく、常に自己の表現の立脚点としての「染める」ことの意味を問いかけ、追求してきた福本氏の創作における不断の実験の軌跡を示していることがわかる。本書の所々に添えられた作者のコメントには制作に対する考えやテクニックなども明らかにされていて参考になる。
 巻頭には「並置と継起の輝き」と題された金子賢治氏による作品論も収録されている。
BOOK 福本繁樹氏作品集『布・染み染み』 月刊『染織α』 1998年7月号

 ろうけつ染の技法を従来の“染織”分野から解き放ち、新たな表現としての可能性を模索し続ける福本繁樹。その1989年から今日までの仕事の展開を追った作品集。ちょうど現代美術コンクール等に意欲的に出品し受賞を重ね、レリーフ状の立体感、布象嵌によるオプティカルなコラージュ画面など、多様な試みがなされ、一冊の本にまとめられたなか、そこから一貫して伝わってくるのは、“染める”という行為に対する理知的で真摯な探究の姿勢と、純粋に“視覚性”のみに集約されていく美感。それが福本の現代的なる所以。
ART BOOKS 気になる本 美術書 『月刊美術』 1998年 6月号
 


布・染み染み

布はそのままで美しい
風を孕み、光を通し、自らドレープを生む
色や形を染めた布を表装すると、布はおおきく表情を変える
パネルの布はしなやかさを失い、「襞」は「壁」となる
肌に触れるやわらかさ、やさしさが布の特質なのだが
触覚を拒絶する布は、触覚性を内にこめて発散させる
テクスチャーは依然やわらかく、やさしい
平面の布は影をつくらず、現実世界の光を排除する
虚構の光と透明な色彩が、饒舌となってイリュージョンへと導く
光と影をよびもどそうと、その平面に角度をつけて立体性をとりいれる
すると光と影は、輝きと艶となって画面によみがえる
角度によって輝きと艶が眩しさをよび、布が妖しく変幻する
布のゆえに、染料のゆえに

作品集掲載エッセイより

 

 



作品集掲載エッセイ(作品制作シリーズ解説)より

ほぞ
「襞」と「壁」
壮大な直線との遭遇

こまぬき・ふきよせ・あや・・・
布象嵌 Shredded Message
裏彩色
作品集掲載序文より 布を染める

 


 

ほぞ

   「襲(かさね)」「包む」「裹む」「匚と凵」など、「奥」を演出する日本の文化を制作の主題としていたのは、もう十年以上前のことである。当時ふと自ら気づいたのは、幾重にも「かさねる」ことを主題としながら、その画面構成は一貫してパターンを「かさねない」方法をとってきたことだ。まるで象嵌のように、パターンとパターンの間にわずかな隙間をあけて、画面上にモチーフをかさねず構成する。このこだわりはいったい何を根拠とするものだろうと自問する。
 「重ねる」とは上に積むことだから、重ねることと重くなることは共通するのだろう。しかし上にのせずに「かさねる」方法もある。襲装束のかさねは「襲」だが、「襲」は「襲の色目」の略でもある。染色は透明な色をかさねる重ね染。しかし上にのせず、物理的に重くならないのに「重」の漢字をもちいるのは少しおかしい。「回を重ねる」や「度重ねる」も同様だ。上下ではなく左右につめあわせると「はめる」になる。「はめる」とは隣接反復のかさね行為である。だとすると象嵌は、パターンを重ねずに「かさねる」方法と言える。やはり私はかさねることにこだわっていたわけだ。
 象嵌は平面のかさねである。立体のかさね(嵌め)に「ほぞ」がある。日本の木造建築には多様な「ほぞ」をもちいる組木の技術が発達した。重ねずにかさねた立体を、重ねずにかさねた平面に構成し、重ね染めしたのが「ほぞ」のシリーズだ。
 「ほぞを固める」「ほぞを噬む」などと、「ほぞ」とはまたヘソのことでもある。「襲(かさね)」のシリーズ以降、「ほぞ」を主題に、大作、小品、屏風、きものなど百点以上制作しただろうか。これだけの数の作品の画面いっぱいにヘソを表現したヘソまがりも他にはいないだろう。
 ヘソまがりのことを英語では「クランク (crank)」という。画面のほぞ(柄)の表現のかたちは、またクランク(折れ曲がった軸)状のかたちともなってる。つまりほぞ(柄)→クランク→ヘソまがり→ほぞ(臍)と洒落ているつもりだが、こんなにひねくれた洒落では誰も気づかなくてナンセンスかも知れない。そんな洒落に内心ほくそえんでいる作者は、やはりヘソまがりなのだろう。

「襞」と「壁」

 しなやかな布は「襞」をたたえる。壁面作品は「壁」の付属物である。平面作品をつくる過程で「襞」を失った布が「壁」へと再生する。「襞」と「壁」の違いは「衣」と「土」にある。「衣」と「土」の違いは、つつむとさえぎる、軟と硬、ニコ(柔・和)とアラ(荒)で、双方は対照的な触覚性を示す。
 「辟」とは、針とうずくまる人とその傷口の象形だという。「辛」は入れ墨をするための針の象形だというから、からく、つらく、辟易したくなる。「辟」を音符にする「避、癖、僻」などの文字は,物を切りひらいてわきへ寄せる、かたよるの意味がある。また土器(瓦)をひらくと甓(かわら)となり、土をひらくと壁となる。
 ひだは、一見さけたように見える衣服のようすから「襞」とされた。ヨーロッパで布の美しさの基準とされるドレープの和訳に「優美な襞」とある。日本語の「襞」には優美という意味合いが乏しい。襞のない直線裁ちを基本とする和服を伝える日本の「襞文化」は西洋に比較して貧しく、ドレープ (drape)、プリーツ (pleat 折り襞) 、ギャザー (gathers 縫い集めた襞) 、フリル (frill 襞の飾縁) 、シャーリング(shirring 生地を縫い縮めた襞飾り) 、スモッキング(smocking 襞上刺繍) などはすべて外来語を用いる。
 布を染め、パネルに張り、壁に取り付ける。平面の作品をレリーフ状にして、画面に角度をもたせ、直線的な襞をとりいれる。つまりドレープを消し去った布の画面に、新たに多曲屏風のような硬直した襞の表情をつける。私の作品には、やわらかなドレープの優美さよりも、幾何学的な襞が似つかわしい。布(ドレープ)の輝きを多曲画面(作品)の輝きとするために「襞」のある「壁」ができあがった。

壮大な直線との遭遇

  私の作品には、一条の白い光を水平にめぐらしたものが多い。1991年、麻布美術工芸館での個展に「風神・雷神」の大作シリーズを展示した。展示室の四面に幅7メートルの作品4点を配置すると、作品の白いぼかしが四面につながり、まるで遠くにながめる水平線のように見えた。このとき、かつて南太平洋で体験したある事件が「原体験」として脳裏によぎった。それは壮大な直線との遭遇である。
 1970年の秋、私は貨物船に便乗して南太平洋をめざした。日本を発って29日目、航海士がもうすぐ環礁マジュロ島に到着すると知らせてくれた。小さな島しかない海洋を何日もかけて航海してきたので、東西約39キロのマジュロ島は海図でみるとバカにおおきく見えた。南太平洋の真っ只中にあるマジュロは標高1〜2メートルの平坦な隆起珊瑚礁からなり、ヤシの木より高いものがない。海図上の測量では船が島にぶつかるかと思うほど接近している。風がなく、空気が澄み、すばらしい快晴の日だった。しかし島影は見えない。航海士は「島はすぐそこにあるのだが、地球がまるいから見えないのだ」という。
  広大な海洋を航海すると、地球が丸いということを実感する。日本でも「帆かげ三里」とか「船かげ三里、帆かげ七里」ということわざがある。三里離れると船は帆だけしかみえない、あるいは船は三里、帆は七里離れるとみえなくなるという意味で、このような現象は地球が丸いことに由来する。
 突然思いがけないことがおこった。水平線上にくっきりと黒い姿が一瞬にして現れたのだ。マジュロの島影である。それはきわめて細くて長い、一本の壮大な直線だった。島影の端から端まで見渡すのに首を、左から右へとほとんど百八十度まわさなくてはならなかった。こんなにも細く、こんなにも長い直線がこの世にあったのかと、ウソのような情景をまのあたりにして、驚嘆と感動に胸がつまる思いだった。

布象嵌 Shredded Message

 布を染め、和紙で裏打ちして切り刻み、それぞれを突き合わせて貼って再構成した、染色布切り嵌め表装。三浦景生氏はこの種の手法を屏風に用いて、自ら「布象嵌」と名付けておられる。そのモザイク構成はパッチワーク、キルティング、切り継ぎ、袈裟などに似る。また私の作品は、糸のように細長く切った布の再構成が、裂織、平箔(箔糸)、やたら絣にも似る。
 この布象嵌には、じつは騙し絵のような隠された画面効果がある。細断した布片の布目を九十度方向を変えて市松状に配列すると、光や見る角度によってそれぞれの布片の艶が異なった変化をみせ、市松文様の顕漠と濃淡がさまざまに変化する。ちょうど組織の違いだけで模様を浮き上がらせるダマスク織りの効果である。角度によって輝きと艶が変幻するのは、布と染料ならではの「あいまい」効果である。布象嵌はレリーフ作品とは異質な手法だが、この効果において脈絡がある。
 布象嵌の作品シリーズは、すべて「Shredded Message」とした。なにもタイトルに英語をつかわなくてもいいのだが、英語のタイトルの両義性(ambiguity)がおもしろい。作品は、細断した染色布をメッセージとして再構成したものとも、シュレッダーで細断したメッセージともとれる。つまりこのメッセージは伝えるものか、秘密にするために読めなくしてしまったものか、意味があいまいである。
 ところで「あいまい」の意味は、曖昧模糊としてむずかしい。英語では ambiguous(多義・両義にとれる), unclear(不明確な), vague(明確につかめない), noncommittal(どっちつかずの), equivocal(いかようにもとれる)などと、各種の「あいまい」が区別される。日本語ではこれらすべてを「あいまい」の語でかたづける。あいまいな日本人の「あいまい」はあいまいである。

こまぬき・ふきよせ・あや・くったく・
しだら・そっけ・すさび・はこいり・はこづめ

 これらは Shredded Message の小作品シリーズの主題である。染色で取り組むことのなかった極小作品を、布象嵌の手法でさまざまに展開した。過去に染めた布を引っ張りだし、新たに布を染め、手当たり次第和紙で裏打ちして切り刻む、部屋いっぱいに散らかした蓄積した材料を目の前にイメージを膨らませる。
 《こまぬき》はこまぬく(拱く)の名詞で、左右の手を胸の前で組み合わせること、腕を組むことで、転じて何もしないで見ていること。こまぬくを訛って「手をこまねく」などという。《ふきよせ》は吹き寄せること、種々とり集めること、まぜこぜ節、五目などを意味する。秋風が風だまりに吹き寄せた、色とりどりの落ち葉や木の実をさすこともある。《あや》には文・綾・采・郁・紋・章・絢・綺・綵・彪・彰・斐・繝など多くの漢字がある。模様・入り組んだ仕組み・ものの筋道や区別・いいまわし・ふしまわしなどを意味する。《くったく》(屈託)は一つの事ばかり気にかかって心配すること、くよくよすること、退屈や疲労などで精気を失っていること。「ふしだら」「だらしない」の《しだら》は、しまり・始末の意で、「自堕落」の転とも、梵語の秩序を意味することばからともいわれる。《そっけ》は「素っ気ない」「すげない」の「素気」のこと。「素っ気ない」とは思いやり・愛想・うるおいのないこと。また「素気(そき)」は秋の気の意。《すさび》(荒び・進び・遊び)は(心が或る方向に)いよいよ進むこと、物事の勢いに乗ずること、心のおもむくままにする慰みのわざ、もてあそび、なぐさみの意で、「すさびごと」「手すさび」などという。《はこいり》《はこづめ》は日本に特異的に発達した「はこ」の文化に着目したもの。大切にすること、とっておきの芸、おはこ、箱入り娘の略。詰めるとは言偏に吉と書くが、音符の吉は固くひきしめることだという。

裏彩色

 布には裏と表があることを、私はしばらくわすれていた。そこで染色の作業工程で布を裏返して、裏からさまざまな仕事をはじめた。裏から熱したコテで表のロウを溶かしたり、濃色で染めたりすると、裏と表はまったく違った染色効果となる。これを表装すると、透明性のある布の表面にうっすら裏面のパターンが現れる。まるで布の数センチむこうにもう一枚の布があるように、わずかな厚みの布が、大きな厚みとなって見える。日本画の絵絹などでも試みられる、一種の「裏彩色」である。
 画面構成は、粒(点)をしきつめて面とする。溶ろうの粒を層をなすほど多く撒くのだが、それでも粒は粒となってテクスチャーを残す。そのテクスチャーがおもしろい。蝋糸目(線)をしきつめて面にしようとする試みもはじめた。チャンチンという道具をつかって、ひたすら蝋糸目の線を密集させて面に近づける。また押捺版(面)を用いることもやってみた。ただ間隙を埋めることに淡々と集中する。結果的に画面に何を呼び込むことができるか、それが問題だ。できあがった作品が厳然と存在してくれればいい。
 裏を染めながら「裏」について考える。意外なことだが、英語には日本語の「裏」という語がない。人間中心にとらえる英語には、表裏反転する関係の「裏」という言葉が成り立ち難い。これは相手や物体を基準にした相対的な見方と、自己の視点を基準にした人間中心的な見方の違いを顕著に示す例である。主観よりも、物のあり方を基準にした自動詞的な見方は日本人の特性だろう。それは工芸の素材や制作のプロセスに、ことさらこだわる自らの資質にもあるようだ。論理的な弱点を否めなくても、自然物により接近した、フレキシブル、リバーシブルな視野をもちたいものだ。
裏には裏がある。裏をかくべく、裏を取って、裏の裏をゆけば、本質に迫る裏付けを得ることができる。とかく真理や美というものはうらはらなものだから。

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作品集掲載序文より

布を染める
 私は「染める」ということに特別なこだわりをもって、ろう染で制作をつづけてきた。しかし私の作品は、一見染色に見えないらしく、いまだに顔料やスクリーンプリントの作品だと誤解されることがあるらしい。染色の専門家にもそう思われることがあるのだからやっかいだ。染色独自の可能性を追求してきた仕事が、結果的に染色と思われないとすれば皮肉なことである。私の作品はまぎれもなく染色であり、ろう染だからこそできる仕事なのだから、誤解があろうが頓着するつもりはない。しかしすこし説明させていただこう。私が考えてきたこと、やってきたことを話すことは、誤解を正すとともに、私の視点についての説明にもなりそうだから。
 私は大学で6年間西洋画を基礎から学んだ。そして19歳のときから着物を染めだした。父親が病気で臥せってしまったので、父親のかわりに家業をやるハメになったのだ。つまり生業(プロ)としていきなり本格的な染色に取り組んだ。そして西洋画と染色の性質がまったく違うことに気づく。
 たとえば西洋画の場合、カンヴァスに油絵具を塗ると、放っておいてもそのままの形と色で仕上がってくれる。しかし染料を布に塗っても、そうはいかない。染料は布全体に浸透しようと滲みだすし、染料を固着処理しなければ水洗によって色が流れおちてしまう。また濡れた染料の色は、乾燥した色に変化し、透明な染料は減法混色となって下の色と混ざってしまうので、自由な配色ができない。つまり形も色もコントロールが困難で、やみくもに仕事をしても、仕上げがどうなることかわからない。そのため染色には専門の知識や、経験を積んだ技術が必要となる。
 このように染色は何かにつけて難点が多い。表現に制約があり、工程の手順をふまなくてはならず、失敗しても消しゴムが使えず、上から描きなおすこともできない。不自由で、めんどうで、難しい。おまけに体力的に厳しい仕事である。引染めの場合、水平に張った生地に対して及び腰で機敏に作業しなければならない。汗だくの重労働だが、汗のしずくを一滴でも生地に落とせばたいへんである。自由に、また楽に絵を描きたいのなら、染料を使うほどワリの合わないものはない。
 染色は、布の特性を損なわずに、布に着色、施文する必要から行うものである。だから着物など、布を素材とする実用品には染色の技法を用いねばならない。しかし布の実用よりも、自由な芸術的創作を優先するなら、そのために開発された油絵具やアクリルペイントを用いるほうが容易である。
 私の場合は、着物を染めるために何の疑問もなく染色にたずさわり、いろいろな技法を試みてきた。染色技法では自分の表現に限界があると感じたら、いつでも油絵を描けばいいとも考えていた。しかし大学を卒業してから今日まで、結局まだ一枚も油絵を描いていない。着物ばかりでなく、自分の芸術的創作のためにも、ワリが合わない染色が逆におもしろかったのだ。
 染色のおもしろさは、制作のプロセスのなかで自分の表現の可能性を開発できることだ。表現のためのメディウムにはいろいろあるが、私にとって、素材の生理は殺すものではなく、生かすものである。技法や、制作のプロセスは克服するものではなく、開発するものである。だから私は油絵に興味を抱かなかった。作者のコントロールの簡便さを優先して開発された油絵具は、素材の生理や制作工程のなかに発見できる可能性を犠牲にしてしまったものだと考えるからである。
 しかし染色で制作をはじめてしばらくすると、欲求不満が高まってきた。それは油絵のように、自分の発想や感情を直截に画面に定着できないもどかしさからである。自由な表現でデザインしても、それがそのまま染色の下絵にはならない。染色のデザインには技術的裏付けや制作工程の計画性が必要で、行き当たりばったりの作業では、まず成功しない。ちょうど建築のように、設計図にしたがって作業を進めねばならず、途中で気が変わったり、新たなエモーションやインスピレーションがわいても、それは次の作品のためにとっておくか、さもなくば忘れてしまわねばならない。計画どおりすすめねばならない染色作業は、アドリブがきかず、機械的で窮屈な仕事となる。
 伝統的な工芸技法は、分業量産のために確立されたものが多い。「手作り」の作品といえば一点一点違った趣きがあると考えられるが、それは未熟な技術か粗雑な仕事によるものであって、熟練を極めた職人芸は機械のように正確な仕事をする。手作りの時代でも、機械の時代でも、いいものを安く量産せねばならないのが経済の常識だから、手仕事に機械的な分業量産の技術が開発されるからだ。このような分業量産の伝統技法のマニュアルを、そのまま現代の一品、一貫制作に用いるのは矛盾したこととなる。
 また、確立された技法のマニュアルを忠実に習得することは、熟練の技術を身につけるとともに、そのマニュアルにがんじがらめになることでもある。マニュアルは、完成されたものであればあるだけ、その変革を拒絶する力をもっている。しかし私は、自身の現代造形のために、熟練の技術とともに、既成のマニュアルの改革を必要とした。
 私は、制作工程にアドリブの仕事をいかに取り込むかを考えた。そして形の構成と制作工程を計画的なものとするが、色彩とテクスチャー効果をアドリブでやる方法を考えだした。つまり配色とろうを置く作業を、画面に向かってぶっつけ本番ですることにした。行き当たりばったりでやるのではない、アドリブの効果が、どのような状態となって仕上がるかを読みつつ、作業をすすめるのである。そのためには、十分な試作が必要となる。この方法で成功する解決策は、ただひたすら作品の数量に取り組み、経験による勘を養うことである。「読み」を可能とする冴えた直感、発想、集中力、エモーションなどが備われば、制作工程のダイナミズムを味わいつつ、微妙な配色効果とテクスチャーによる表現を可能とすることができる。その場に独自の風情や気韻といったようなものを、結果的に引き出すことができれば成功だ。
 既成の技法のマニュアルを解体し、自分自身の技法に構築しなおす。この方法によって染色の新しい可能性を広げ、そこに自分の世界を求めようとする。これが私の取り組みの基本である。そのために、さまざまな手法を試みてきた。たとえば、ろう染めに孔版を用いたり、金属的でシャープな構成を試みたり、重ね染めの色彩効果の限界を破る配色や、光を感じさせる明暗の対比効果を工夫したり、あるいはレリーフ構成、布象嵌などである。モノにならず未成功に終わった試みも多い。

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